大学って、まなぶって、いいなあ・・
慶應大学、高草木教授の現代社会史、毎回の講義が楽しみで、毎週金曜なんと6回もきいてしまった。(すべて半休をとった)。全部で13回だからほぼ半分。 ニセ学生でもうしわけない。
6月4日 原水協からベ平連へ⑵ 吉川 勇一
──ベ平連と共産主義労働者党、「殺すな!」の思想
6月11日 三里塚と脱原発運動⑴ 山口 幸夫
──ぷろじぇの結成と市民科学、高木仁三郎と三里塚
6月18日 三里塚と脱原発運動⑵ 山口 幸夫
──「ただの市民が戦車を止める」会、脱原発の未来
6月25日 東大闘争と学生運動⑴ 最首 悟
──東大闘争と助手共闘、所美都子のフェミニズム
7月2日 東大闘争と学生運動⑵ 最首 悟
──68年の袋小路、「問学」としての「いのち学」へ
7月9日 総括討論会
つくづく学ぶっていいなあとあらためて思う。
加藤周一さんが「本当に自由なのは学生のときと、定年に達した老人だけだ。その2世代が共闘することが大切」と言っていたのを思い出した。
授業に出るのも出ないのも自由。
自由に学べる大切さは働き始めないと実感できないかもしれないが。
学生はほとんどでてきてないのと、最後の2回だけ試験目当てに来ていたがとてももったいないと思った。
この授業は、大学でも、企業でも絶対に学べないものばかり。
物性物理出身の山口幸夫先生、体制科学ではない市民科学の大切さをじゅんじゅんととかれていた。
原発は100歩譲って事故が起こらなくとも、放射性廃棄物の処理の問題はまったく解決していない。そしてそこで働く原発労働者は必ず被曝する。差別され隠蔽される。
そのことを許しますか、そういう問題である。
ちっともクリーンではない。
生物学の最首悟先生。
ジェンダー、フェミニズムを生物学の視点から講義された。 正直、深い含意が半分くらいしか理解できなかったが、「ああそうむすびついているのか」みたいな発見が随所にあった。
所美津子に仮託して「生き生きとごちゃごちゃと」、自己否定の末の雑炊的肯定主義みたいなことをニコニコとはなされていたが、どれほどふかい自省の後の境地かと思うと身がひきしまる思いがした。
「辺野古の問題」と「子ども手当て」を同一に論ずる、それをごっちゃにできる思考はなんなのだ、と触れられたときの鋭い眼は忘れられない。
最首さんは学問とはなんぞやということにするどい疑問をだされていた。 あの時代助手共闘のトップで、最後まで「大学とは何か」を問い続けてきた真骨頂である。役に立つことをやらないのが学問だと。
”役に立つ”となれば、なんの、だれに となる。 もう純粋ではない。答えありきのドリルである。
”市民科学”ということにも?を投げかける。
市民と言う言葉自体がいかがわしい。 ”働かない男”というイメージだと。
このあたり山口さんと切り結んでとても面白い。
最後は総括討論、いのちと現代の棄民について
歴史学の松村たかお先生(イギリス史)が聴講されていた。
「私は経済学部で40年おしえてきたが、この社会学の講義は、経済学部の講義のなかで唯一意味のある講義だと確信をもっていえる。」とコメントされて、イギリスにおけるHistory Workshop 運動(一人ひとりが歴史家になって、歴史を書いていく)を紹介された。 市民科学との類似性があってとても興味深かった。
まあ、どうここに書いてみても、面白さは伝わらない。
こういうことがふんだんにあるのが大学なのかとあらためて感じた。

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