根津山
3.23に小学校のクラス会をやった。会がはじまる前に”根津山”を見に行った。
この根津山は池袋にある同名の山とは違う。
世田谷の代田にあり、今は羽根木公園と言われている。当時も正式名称は羽根木公園だったが、だれもそうは呼ばなかった。皆は”根津山”とよんでいたのだが、御想像のとおり根津嘉一郎がもっていたからである。
学校の前の坂を登れば根津山で、皆ランドセルを家におくやいなや、毎日のように根津山に遊びにいった。山と言うより丘なのだが真ん中にグランドがあるきりの野っぱらだった。
こどもの背丈より高い草が生い茂り、そのなかで追いかけっこをしたり草を結んで罠をつくったり、落とし穴をつくったり、なんでもやった。 三角ベースで野球をしたり、グランドの周りを自転車で走ったり、禁止された2B弾を爆発させたり、小田牛線のレールの上に五寸釘を置いたりして遊んだ。周りの田んぼではざりがにをつかまえた。はたけの肥だめにおちるやつも当然いた。
雪が降れば学校中で根津山にいき、雪合戦、そり遊び、はてはスキーを家から持ち出して来て遊んだものだ。
梅ヶ丘側の崖の下には防空壕がいくつかあって、浮浪者が住んでいた。 みんな入りたがったが、崩れるかもしれないので絶対に入ってはいけないといわれていた。 昭和32年ころはまだ戦争の影が残っていたのだ。
もちろん環七はなく、下北沢にも遠征した。小田急線の下北沢の踏切脇には戦後の闇市が発展したマーケットが広がっていた。これもこの3.23の下北沢駅の地下化にともなって消滅してしまった。(荻窪の闇市の跡はタウンセブンのビルになってしまったので、かろうじて残るのは、吉祥寺のハモニカ横丁ぐらいかもしれない。)
その根津山に迷路がある。
この迷路は我々のこどものころにできたのだ。このなかを自転車で疾走して怪我をするなんていのはしょっちゅうだった。
今、これが羽根木公園プレイパークの真ん中に鎮座している。
羽根木公園はプレイパーク発祥の地として有名だが、昔の子供は同じことをガキ大将のもとでやっていたのだ。
グランド
3.23はちょうど花見の真っ最中だった
こんなふうに書いてくると、どんどん昔の事を思い出してくる。
小学校5年の頃から環七の工事が始まって、引っ越していかなければいけない友達がたくさん出てきてとても残念だった。

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