JR福知山線で、痛ましい、鉄道史上最悪と思える事故が発生した。関係者の方々に哀悼の念を表すると同時に、再掲ではあるが、高度文明・高度情報化社会における安全性と信頼性についての所見をここで述べておきたい。
科学・技術の進歩は、社会を高度文明化・情報化社会となすことに貢献している。しかし、高度文明化・情報化社会が「安全」で勝つ「信頼」できるものであるのか?という観点からの研究も必要であるのではないだろうか?
というのは、ちゃんとした高度文明化・情報化社会を形成するには、そのための機器・システムが必要であり、それらの安全性と信頼性が保証されねばならないからだ。機器・システム自体の安全性と信頼性については、かなりの程度にまで高められてはいる。ところが、機器・システムの末端には、それらを運用する人間が張り付かねばならない。ということは、高度文明化・情報化社会が「安全」でかつ「信頼」できるものであるかどうかは、人間自身が安全で信頼できる存在であるか?という問題に帰着されるのだ。
人間自身は感情の動物であり、特に人間関係にきわめて左右されやすい生き物である。このあたりは「甘え」をキーワードとして分析・理解することができる。
人間は互いに他者に依存して、つまり互いに甘えながら生きる生物である。ここで、甘えたくても甘えられない、という状態になると、拗ね、僻み、恨み、ふてくされ、やけくそになる心意が発生するということに注意する必要がある。
そんな心理状態にある医師が手術をする、パイロットが航空機を操縦する、原子力施設を管理する、…、といった状態を想定してみよう。空恐ろしく感じてしまうのは、私ひとりではないであろう。人間に拗ね、僻み、恨み、ふてくされ、やけくその心意が発生すると、それらが極度に強くなれば破壊衝動として現れたりもするわけだ。つまり、高度文明化・情報化社会は、人間の虫の居所によって、その安全性と信頼性が決まってしまう性質があるということに注意を払わねばならない。

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