例の高校野球の件で 私はとても悲しい気持になっている。
世間が 先生や指導者の暴力を 認めている感触があるからだ。
以下の文章は この事件をきっかけにして 考えたものではありますが
この件に関して どちらが良いとか 正しいとか言うつもりは全くありません。
一般論として 書いて行きたいと思います。
私は どんな理由があっても 暴力を使ってはいけないという事を
大前提とする社会であって 欲しいと思っている。
現実がどうだからと言う事で 目指すべき社会の姿を
変えてはならないと思う。
暴力 やむなし・・と思っている人は
ここのところで 考えのズレに気がついていないと思うのだ。
現実は とても酷かったり厳しく悲しいものかもしれません。
荒れ狂う学生や生徒を前に
「暴力がダメなら 一体 どうするの?」と問われた時に
応える事のできる対案を 私は持ち合わせていないのです。
そんなに すぐに効く良い案があろうハズがありません。
でも、だからといって 暴力を使って良い事には ならないでしょう。
むしろ、暴力で何がどんな風に解決するのか
逆に 私は問いたいのです。
そこから生まれる社会って 一体どのようなものなのか?
誰がどんな正しさで その暴力に対して「OK」を 出すのだろうか?
或いは 暴力で問題が解決したら
私にはその方が 余程 恐ろしい。
私は 初めての子供を育てる時に
沢山の暴力を振るってしまった。
それは私の 失敗。人生の最大の汚点。
人様にお話できない恥かしい事。
私は その暴力を使う前に一体 どれだけしっかりと
他のやり方をやって見ただろう。
どれだけ我慢強く 道を求めただろう。
新しい道はいくらでもあって まだまだ そんなに簡単には
暴力を正当化するには至らないはずだ。
私達は現実に負けて 後ろ向きに理想を変えてはならないはずだ。
9・11には「報復」しか
返す手段は無いという事になるのだろうか?
いいえ、社会の理想は 現実に負けずに 進化させなければならないと思う。
現実がどんなに厳しくても それに負けずに理想を持ち
見えない道を求めて あれでも無い、これでも上手く行かないと
試行錯誤し 悩み
あらゆる知恵を使って行かなくてはいけないのだと 私は思う。
暴力と言うのは 悲しいかな人間は弱いから「使ってしまうもの」ではあっても
それを使った事を正当化したり 認めたりできる種類のものではないはずだ。
暴力を受けたにもかかわらず 優しい人に育った長男を
私は誇りに思い 又彼に 感謝をしている。
けれども、いつまでも 私の心には消えない傷が残っている。

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