敗戦の記念日にあたり 父の体験のごく一部ですが
書き留めて皆さんに読んでいただこうと思います。
戦争は絶対に回避しなければならない。
高い志で出来上がった憲法を変えてはならない。
理想を現実に近づけるのではなく
この現実が少しでも私たちの理想に近づけるように
諦めず 皆で一緒に努力しましょう。
「父の話」
父は 18歳から10年間も戦争に行っていました。
青春の一番良い時代を 恋することもなく 夢も語れず
あの苦しみと闘っていたのかと思うと
胸がつぶれそうになるのです。
中国でのお話もありますが 今日はガダルカナルのお話。
私の父は ガダルカナルの生き残りです。
若い方のために 少し説明をしますと
戦争中 日本はどんどん外国に兵隊を送って 日本と言う国を
もっと大きな国にしようとしていました。
「大東亜共栄圏」「八紘一宇」と言う言葉を知っていますか?
ガダルカナルは南洋の小さな島で そこにも日本兵がたくさん送られ
ほとんどの人が死んでいったのです。
父はその生き残りなのです。
私が小さな頃から 彼はよく戦争の話をしていました。
彼の人生の大半が戦争だったのですから 当然ですよね。
戦争の話しか出来なかったのでしょう。
ガダルカナルは悲惨でした。
ご存知のとおり 制空権も制海権も失った日本は
物資や武器の補給が出来なかったようですね。
父の話では 食べ物を食べつくし
島のヤシガニなども食べつくし
毎日何も口にすることが出来ず 皆どんどんやせ衰えて行ったそうです。
そのがりがりに痩せた体に マラリヤなどの風土病が襲います。
皆 高熱にうかされ 意識が朦朧としています。
そこに 機銃掃射や艦砲射撃。
毎日30回位 攻撃を受けたけれど 逃げる体力すらもう残っていなかったと言っていました。
その頃 私の父には部下が5人残っていました。
父は 体も大きく 体力もあったのでしょう。
何とかその5人の部下を守るために 「水を汲む」この事だけを日課として自分に課していたのです。
飲み水を汲める場所は 限られています。
勿論 敵兵が待ち構えているのです。
父は言っていました。
空の水筒を右に3つ 左に3つ Xに掛けて
意識が朦朧とし がりがりに痩せて歩けない体を
何とか杖を突いて立たせて 水汲みのできるところまで 二時間
歩いていったそうです。
敵兵の見張りをすり抜け 全員の水筒を満たし また二時間掛けて戻ります。
その帰りがまた辛かったそうです。
右に3つ 左に3つ 水筒は満たされていますが重くなっていて
がりがりに痩せた肩に食い込んで 痛くて痛くて・・・。
私には「右に3つ 左に3つ」を毎回言っていた父の声が 忘れられません。
意識が朦朧としている中 一つでも忘れないように
自分で 確かめていたのだと思います、子どものように。
「右に3つ 左に3つ」
誰かが死んでも 穴を掘るだけの力も残っていないから そのままになってしまう。
何とか生き残って 遺髪だけでも届けたいと
父は死体のところまで這って行って 砂を掛け 遺髪を得て
油紙に包んで 大切に持っていたといっていました。
その後 彼は負傷し 病院船で運ばれる事になりますが
その病院船すら攻撃を受け 南の海で漂っていた時に 遺髪も無くしたと言っていました。
「光代。 こんな状況で たくさんの人が死んだけれど
何で死ぬのが一番多かったと思う?」と 父は聞きました。
私はまだ とても幼かった。
「光代、敵に攻撃されて 撃たれて死ぬんじゃない。
マラリアで死ぬんじゃない。
飢餓で死ぬんでもない。
一番多かったのは 『狂い死に』だ。」
「わしは 恋人も妻や子どももいなかったのが かえって良かったのだと思う。
日本にそれらの人を残してきていた人は 心も日本に残っていたんだろうなあ。
わしは 生き延びる事だけ 考えていられたから・・・・・・」
今日のところはこれでお終い。
父は 戦後もたくさんの人を守るために働いてきました。
母だけではなく 母の姉妹も狭い長屋であるにも拘らず
一緒に住んで養っていました。
社員からも 大変尊敬され 慕われていました。
皆を守る・・・・このことが彼の生きる原動力になっていっていたのでしょう。
その「父と私」のことを そのうちに書けるようになったら 書きますね。
敗戦の記念の日に この現実に負けることなく
素晴らしい憲法と九条を守りたくて この一文を書きました。
私たちの知恵は 絶対に戦争を回避する事に集中しなければならないと考えています。

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