小さな頃から自分を肯定できず
「自分」と言うものをスタートさせる事が出来ないでいた。
大学生の頃は 70年安保の大きな渦の中にいて(や〜、年がばれちゃうね)
バリケード封鎖されたキャンパスの中で
何かを求めて うろうろオロオロしていたのだ。
苦しくて 苦しくて。
そんな時 出会ったのがフェデリコ・フェリーにと言う映画監督の「81/2」
(文字が上手くコントロールできません。「はちかにぶんのいち」と読んでください)
映画の初めから終わりまで 私はずっと
「そうそう わかる」「そうなのそうなの」と つぶやいていた。
(ここからは 映画の内容を知りたくない人は読まないでね。
書かないで説明できないのです)
彼はとても敬虔なカトリックの家庭に生まれたらしい。
けれども彼は 自分の中に もっと違う「どろどろしたエネルギー」を感じている。
「社会からはみ出そうになった人たち」に惹かれている自分がいる。
映画はそんな小さな頃の自分のエピソードや
作ろうとしている映画の構想や
それにまとわり付いてくる映画人や
奥さんと愛人と
自分の中のどろどろの幻想など
様々なシーンが次々に重なって 層のように脈絡無く登場する。
重なるたびに彼は追い詰められ 追い詰められ
大混乱の中で ついに その映画を作るのを止めると宣言してしまう。
壊されていく巨大セットの前で 彼は突然「開放感」を味わう。
「君らを受け入れ 愛するよ。何て簡単なんだ」
「全てが真実で輝いている」
「混乱した僕の人生は僕自身の反映だったんだ」
「理想とは違うが混乱はこわくない」
「人生は祭りだ 共に生きよう」
映画の最後のシーンが本当に美しい。
登場した全ての人たちが 手をつなぎ 輪になって踊っている。
(私の感動が最高潮に達するシーンだ)
夜になり みなはもういない。
5人の楽隊の残りの人たちを退場させ
最後に小さな少年が 笛を吹きながら退場する。
これはきっと彼なのだ。
映画が終わった時には 私は 喜びに包まれていた。
世界のどこかに 私と同じ感性で生きていて
同じ苦しみを持ち それでも もがきながら生きている人がきっといるのだ。
私は一人ではないのだ。
どこにいるかわからない。
いつ会えるか分からない。
ポツンぽつんとしか居ないであろうその人たちを 私は一人ずつ探そう。
そんな風に思った。
どこかにいる 「同じ思いを背負った人」
その人の存在が 私をここまで引っ張ってきた。
フェリーニと同じく又 私も全ての人を愛そうとする。
全てが輝いて見えることを 伝えようとする。
彼は映画で
私は 私の存在で。
フェリーニが映画の最後に全ての人を登場させたように
私は 飾らない自分をそのままで登場させたい。
そう思って このブログを綴っているのです。
飾ってしまう自分も 大見得切る自分も全て 自分と言う事でね。
恥ずかしくても そのままで・・・・・。

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