吉川ひなの・・・・というタレントが 面白いことを言っていました。
お付き合いを始めたら まず 自分の一番臭いところを匂ってもらうって。
ね?面白いでしょう?
例えば 脇とか頭の一番臭いところとか・・・・と言うのです。
「じゃあ、おならは?」と突っ込まれて
「はい、今からします・・・と言って 聞いてもらって、します」
若い女性が なかなか勇気のある発言ですね〜。
なぜか聞かれてこんな事を言っていました。
「一番嫌なところを知ってもらったら 後が安心」
大人のタレント達は いろいろな事を経験してきているので
「人との関係というのは そんなことだけじゃないから」などという
分別のある常識的なことを言っていました。
人の体の匂いって 不快と感じるほうが多いのでしょうね。
その匂いを消すグッズがいろいろ見られますもの。
特に夏が近付くと 「脇の匂いを消す」という製品が ずらりと並び始めますね。
お部屋の匂いもそうですね。
家中に スプレーしている宣伝を よく見ますものね。
先日は 出張先のホテルでお部屋にその「お部屋の匂い消し」が設置されているのを見ました。
「お客様のご要望に応えました」と書いてありました。
でも、なんか 引っかかってしまいます。
そこまで 匂うことを否定しても良いのかな〜って。
少しでも不快感を与えないように・・・という心根は素敵だとは思うのですが
「匂い」という個性を そこまで否定するのはね〜。
生きていると匂います。
動物を飼ったら分かります。臭いですもの。
人間だって同じ事。
生きているのですから匂うでしょう。
気になるなら 毎日お風呂でごしごしするとか
出かける前にシャワーするとか 何かいろいろやってみるのは良いと思うのですが
化学薬品をばら撒くって言うのがどうも・・・・・。
私はそのようが余程 気になるのです。
そしてまた、日々の普通の生活で除菌を徹底するとか
匂いを徹底的に無くすという考え方の中に
とても危険な「匂い」がします。
大袈裟かもしれませんが 何だか自己否定のような匂いがするのです。
どっしりと 地に脚をつけて存在するよりも
ふわふわ浮いたように漂っている方が良いと思っているように感じます。
土を無くし 緑を無くして生活している事がこんなことまで 影響するのか・・・と思ってしまいます。
コンクリートの箱には 動物は似合わない。
臭いものは 霧散したりせず そこに留まります。
コンクリートの箱の中には 本当は人間を含めた「生き物」はそぐわないのでしょうね。
だから、私達は「生き物」であることを薄めて そこにいようとしている。
そんな風に感じてしまいます。
テレビのバラエティーでは タレント達が失敗話やちょっと面白い話をしています。
それをぼんやり見ていると「私は無害です」と 言いあっているように見えます。
賢かったり 何かが出来たりするよりは
失敗をよくする無害なタレントの方が 生き延びやすいのかもしれません。
「匂い」のことと合わせて考えていると それは緩やかに自分の存在さえ消して行っているような そんな不安に襲われるのです。
人は生きているから臭います。
人は生きているから 色々なものを排出します。
人は生きていると そうそう迷惑をかけないわけには行きません。
自分の存在分だけ 人にも環境にも迷惑をかけることでしょう。
そんな自分を受け入れられないと
他の人に対しても許容の範囲が狭くなると感じます。
昔 自然は私たちが排出したものを分解し それを自然に戻してくれていました。
そんな循環の中で 私達は守られていました。
大袈裟と感じられるかもしれませんが
「匂い」を余りにも徹底的に否定することは
「生き物」としての自分を否定することになっているような気がすること。
自分を受け入れられないことが また他の人を許し受け入れることを出来にくくしているように感じます。
そして それはどこか「生き延びる力」を無くしていく方向の考え方じゃないかなあと思っているのです。
ECOという考え方は また 私にとって
そのような「生きる力」を取り戻す考え方でもあるのです。

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