先日「けんか祭り」を見に行って 思った。
もっと「祭り」が必要だってこと。
久々に見たもの。
それは 若いお父さんが子どもを「肩車」しているところです。
それも何人も見ました。
「肩車」なんて 私はもう何年も見ていませんでしたが、素敵ですよね〜。
わが子にお祭りの様子を見せようと 若いお父さん達は小さな子どもを肩車しています。そして、二人一緒に掛け声をかけています。
いいえ、熱くなって はやし立てているって感じかしら。
それを見ていて 思いましたよ。
こういう年中行事があるなら 「親子のふれあい」などというような言葉も必要ないなあって。
きっと「地域の活動」と言う言葉も必要ないわ。
私がPTAで活動していたときにも 既にそのような言葉がありました。
それは 縦にも横にも 繋がりを分断されていると言うことだったんですね。
縦に・・・と言うのは 家族の単位がどんどん小さくなって
例えば、子供用の個室や携帯電話によって 今はある意味「個人」が単位になっているとすらいえる現状のことです。
この祭りの親子のように 祖父から父へ・父から子ども達へ・・・・と言う文化の自然な流れは絶たれてしまっていると感じるのです。
また 大阪を例に取ると 古い町並みは一掃され
新しいマンション群がどんどん建って行っていますが 失ったものは大きいですね。
まず、そこで長年培われてきた人々の繋がりは 無くなりました。
ごくごく自然に お互いに気を使い 助け合い 声を掛け合っていた、
そんな繋がりは すっかり失われてしまいました。
そう、昔はそんな風に他の人や他所のお家との境界線は もっともっとあいまいで
それゆえに 横の繋がりは広がりへと面になっていたように感じています。
それら 縦にも横にも繋がりを持って守られていた個人は
今、とても危うい。
たんぽぽさんのところで読みました。
学校にとんでもない要求をする親が実際にいると言うことを。
自分のことだけを考えている発言。
地域があり お祭りがあり そのお祭りを成功させるために色々な役目があり
上の人は若い人たちにそれを教え、互いに連絡を取り合い 協調し
親は子ども達と共に それを成し遂げ 或いは味わい・・・・と
お祭りを楽しむだけでも 沢山のことが自然に伝わって行きます。
また、子ども達は 年に応じて自分の担う役目が重要になっていくのを
とても誇らしく思うのでしょうね。
そして、そうした経験の中で(言葉で教えられるのではなく) 一人一人の存在の大切さを学ぶのでしょう。
学校や子ども会などで それをら補うかのように色々な行事をしているところもあります。それを素敵だなあと思います。
でも 私が本当に欲しいのは「子ども達のため」の行事ではなく 生活の中から出てくる年中行事です。
実はこれもたんぽぽさんのところで読んだのですが
市が主催している「環境フェスティバル」
これなんかは 昔のお祭りに替わるものなのかもしれません。
遊んだり物を作ったりしながら 環境・エコ・・・と言う問題への取り組みを学べるし
それを考えるとき 自然に縦と横の繋がりについても 少しは考えることになるのですものね。
新しいお祭り・フェスティバル・・・の形なのかもしれません。
行政と言う単位で取り組むしか ないのかもしれません。
でも、やっぱり「けんか祭り」は 魅力的だったなあ。
誰かにしてもらうって言うんじゃないのですもの。
身体の中から出て来る「生きるエネルギー」に満ちていて
それが 親から子どもへと伝わっていっている感じがしたのです。
年配者のお尻も
中年のプリプリお尻も
若人の引き締まったお尻も
シミだらけのお尻も
毛だらけのお尻も
全てのお尻が自分の存在の大切さを知っている感じがしました。
それぞれが自分の居るべき位置を知っている感じがしました。
どのお尻も 生きるエネルギーに満ちていて 私は圧倒されてしまいました。
ちなみに そのふんどし様のものは ふんどしだったようで
「締め込み」と呼ばれているそうです。
私個人も学んだことがありますよ。
言葉になりにくいのですが・・・。
男性って 私(達)女性とはまったく違う生き物だと書きましたが
正しくその通りだと 改めて思います。
私は それらのエネルギーとの付き合い方が下手なのですが
けんか祭りで なにやらちょっと 学んだような気がしています。
そう、私の知らないそのエネルギーの出方を 魅力的に感じられるようになって居るのです。
あれ以来ずっと考えているの。
私が得たあの衝撃の正体はなんだろうって。
また、私がゆっくり 変わるかもね。

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