昔の生活は 循環型と言っていいでしょうね。
昔は物をとことん使っていました。
着物は 穴があいたら繕って繕って着て、それでもダメになったら 良い所だけを取ってパッチワークにして使ったり、雑巾にしたり・・・。
昔、赤ちゃんのおむつは 着古した寝間着などで作っていましたね。
布が柔らかくなっていて赤ちゃんの肌には優しかったし、洗って何度でも使うので 大量のゴミを出すこともありませんでした。
どうしても捨てるしかなくなったものは 捨てられたとしても、水や土がゆっくり分解してくれるのでした。
そのスピードを超えてしまう程のゴミは出していませんでした。
沢山の人が農業をしていました。
それを私達が頂きます。
私達が排泄したものは 溜められ、肥やしになり 野菜を育てたのですよね。
そして、その野菜をまた私達が頂く。
その頃 物はどれもこれも貴重で大切な物であったはずです。
循環型の社会では「ゴミ」と言う「要らない物の存在」はほんのわずかですものね。
私が惚れ込んでいる四万十ヒノキの集成材工場では その「循環型社会」を作るために色々な取り組みをしていると言います。
「ボイラーの熱で集成材を乾かす機械は高価でお金が掛かります。けれど、環境を守るというのはお金には換えられません。」
「我々川上に住む者は 沢の水が枯れぬよう、また異常気象や温暖化にも強くなれるよう日々勉強し計画を立て、山を守って行きます」
「街の方々にも理解して頂き、お客様に喜んで頂き、良いネットワークを作って循環型の社会を作って行きたいと思います」
私は その心意気に惚れました。
自分たちの工場にとどまらず、地域にとどまらず、地球という規模で考え それを実行している。そんな工場と一緒に 私達も少しずつでも前進して行きたいと思ったのです。
アルミレールシェルフヒノキを作った時、取引先には言われました。
「もっと 安い木を使って 安い製品にして欲しい」
そんな時 私は頑固に言ってしまいます。
「この板であることが 私達にとって意味があるのです」
社会は 経済で回っています。
ですから、こんなえらそうな啖呵を切っていても 本当は私はドキドキなのです。
売れなければ 意味が無いからです。
売れなければ その製品は社会に参加することも出来ないからです。
それでも やっぱり思っています。
「どんな風に仕事をするかは どんな風に生きるかと言う事だ」って。
そして、「どんな風に仕事をするかによって 社会が作られて行く」って。
だから、私達がここのヒノキの板を少しでも沢山使うこと、つまり この板を買うことが ここのこの「立派な仕事ぶり」を支えることになると思って 私は頑固にこのヒノキを使っています。
いいえ、今後 出来ることなら 新製品も作って もっと使って行きたい。
「買う」と言う行為で 四万十ヒノキの山を守り循環型の社会を作ろうという志を支えて行きたい,そう思っています。
そうです。「買い支える」と言う考え方です。
これなら 現地に行ってお手伝いするのでなくても 参加出来ますものね。
そして、遠く離れていても 同じ思いを持って 日々の生活の中で同じ志を生きることは出来ると思います。
例えば、物は大切に長く長く使う。
ゴミを出来る限りださない。
出す時には きちんと分別し、環境への負荷をできる限り減らして行く。
そんな特に特別なことではない,日々の当たり前の営みが とても大切だと思います。
そして,それが四万十ヒノキを守っている人達と繋がって行く時
それは 循環型社会を作るだけではなくて、人との繋がりを大切にする社会になると思うのです。
その時 一人一人の存在は また 今よりももっと貴重なものとして意識されることでしょう。
そんな社会になったら良いな。
そう思って 今日も「売り先」を探しています。
「売る」と言う行為が 「儲ける」と言う以外の大切な意味を持って来たので「営業」という慣れない仕事も その中にたくさんの喜びを見いだすことになりました。
これが私の会社です。
http://q-ho.com/
会社同様 ホームページも発展途上にあります・・・

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