「『
時差ボケ東京』とジャコメッティ」
もう20年くらい前になると思います。もっとかな〜。
ジャコメッティ展に行きました。大好きだったのです。
で、是非とも本物に触れたかった。
会場で私は震えました。
感動という表現では足りないくらい感動して、体の奥底から揺さぶられたような感じになったのです。後から知った事ですが 彼は「見えるものを見える通りに表す」事をどこまでも追求した人なのだそうです。
私には彼が 今見えている事と刻一刻変わって行くその事の双方に必死で迫っていたように思えました。
「見えているものを見える通りに」・・・そんな単純な事の何と難しい事!
キャンバスには 感動的な苦闘の跡が有りました。
図録にはこんな風にも書かれています。
「・・・感覚を概念に、視覚を知識に置きかえてしまう慣例を払いのけ、一掃した視線を創出する事」
masaさんの写真集「時差ボケ東京」を見た時に 同じ震えを憶えました。
ジャコメッティと同じように「・・・感覚を概念に、視覚を知識に置きかえてしまう慣例を払いのけ」ようとしている写真群に出会ったのです。
masaさんのあとがきにも有るように 私達は経験を次々重ねる中で 自分にとって必要なもののみ とらえるようになってしまっていて、見たいものを見たいようにしか見ていない。「見えているものを見えている通りに」は認識出来ていないのですね。
この写真家はこれらの写真によって 私達に「眼が映す像を素のままに見る」と言う事を提示してくれました。
私はなぜ こんなにもこの二人の作品に震えたのだろう?
これらの作品は、なぜ 私という存在の根幹にまで到達し私を揺さぶっているんだろう?
私はジャコメッティに震え、「時差ボケ東京」に震えている。
私の心に有る風景や憧憬や諸々の像を薄い薄いフィルムに映してみましょうか?
一枚には ただ一つの風景。
それらを全部重ねたら 私になるという訳。
それらの一枚一枚は masaさんのおっしゃる通り「疾走している」のに違いないのです。刻一刻と変化し続けて居るのです。
けれど、それらのフィルムを全部重ねて見たら 刻一刻と変わり続け 疾走し続けていながら、やはり 私は私であり続けているのです。
変化し、疾走しながらもね。
ジャコメッティと「時差ボケ東京」に震えながら、私はそこに 私自身を見ています。
表現行為を持たない私は こうしてこれらの作品に感動し、震えるという事の中に 私の実存を見るのです。
それこそが 私の「時差ボケ東京」なのですよ。

0