今日は
日本テレマン協会の定期演奏会でした。
今日のコンサートは、クラシック好きな方ならもう何度も聞いた事がある曲目です。
ベートーベンの「ピアノ協奏曲第5番 皇帝」と「交響曲5番 運命」です。
その両曲とも 今回はクラシカル楽器を使って演奏されました。
と言う事は、ピアノ協奏曲は私たちが知っているピアノを使わないと言う事ですね。
そうです。「フォルテピアノ」という昔のピアノです。
今のピアノほど 大きな音が出たり響いたりしません。
今日は1810年頃のフォルテピアノだそうで、ベ−トーベンも生きていた時代のものなのですから、それだけでもなんだかちょっと嬉しい。
さて、「皇帝」の演奏が始まって すぐに私はびっくり仰天。
そして「はっ」としたのです。
フォルテピアノの音は そんなに大きな音でもないし 際立って聞こえる訳でもありません。
私たちが知っている「皇帝」は ピアノの音が際立ち、それを支えるかのように弦楽器などがまとまった音を奏でています。
けれど、今日のは全く違う音でした。
全ての楽器の音が私たち人間の心にも身体にもとてもなじみやすい柔らかさを持っています。
フォルテピアノも同様で その音が弦楽器などと一体になり、一つの和音のようにさえ聞こえます!
今まで知っていた「皇帝」とは全然違います。
聞きながら、気づいたのです。
ベートーベンは この音を期待して楽譜を書いていたのだと

この音を聞かせたくて 作曲をしていたのですよね。
徐々に楽器も改良されていきます。
古楽器のラッパ類は チューブを曲げただけのようなものが多く 演奏も難しそうです。
それが今では ピストンがついています。
ピアノも 良く響き、大きな音も楽に出せます。
どんどん良くなっていっているのです。
ところが

ベートーベンが期待して楽譜に書いてきた音から徐々にずれていっていたのですね。
今の楽器演奏がダメと言っているのではありません。
ただ、作曲者自身が期待したのではない音をずっと聞いてきたのか・・・・・と言う事が衝撃的でした。
そして、テレマン協会の皆さんのおかげで ベートーベンの意図に触れる事ができて、どれほど感動したことか
全体のまとまりの良い響き、柔らかさに胸の奥の方が痛くなるような感覚が襲います。
さて、今度は「運命」。たくさんの人がこの曲を全て知っていると言っていいくらいポピュラーですね。
ところが、これがまた、知っているのとは全然違う
なんと柔らかく軽やかなのでしょう。
私たちがずっと聞いてきた「運命」は 重苦しくちょっと暗い。
ところが 今日のは 本当に軽やか。軽妙です。
そして、楽しげにすら聞こえてきました。
生き生き軽やかに舞っているみたい。
「運命」と言う重苦しさより 時折、喜びに舞う軽やかな足取りを感じました。
不思議な感じ。
そうです、「生き生き」と言う言葉がぴったりでした。
その音に包まれて、浸っているうちに、私はベートーベンと言う人、その人に触れたかのような気がしてきました。
そんな演奏でした。
テレマンの皆さんの演奏を通して、私はベートーベンと会話したかのような気がしたのです。
なんと言う幸せ

幸せで、幸せで、私の身体がずーっと広がり、空中に溶けて 音と一緒になっていきます。
「ああ、私はこんな風に『生きた音』が奏でたいんだ」そんな風に心から思いました。
「生きた音」「生き生き生きている音」
昔の人たちが作った曲を演奏すると言う事は その人たちと会話する事だと思ってきました。
その通りだと思います。
そして、今日、それがこんな「生きた」形で実現しているのを目の当たりにしたのです。
そりゃあもう、幸せでした。
これが 音楽をすると言う事なのだと思いました。
古楽器を使って演奏すると言う事はリスクもありますよね。
大きなホールでは聞こえにくい。
どんなに小さな音もきりりと際立った演奏ができる事は 諦めねばなりません。
ラッパ類など 時折変な音が出ちゃったりね。
けれど、そんな風な分かりやすい比較には無いところに良さがあるのを今日は体中で感じてきました。
200年も昔の人と 音楽を通して会話する・・・・・と言うと聞こえは良いのですが、演奏者はそう思っても 聞いている私たちが心からそのように思える事はそうそうありません。
たくさんのリスクを背負ってでもなお、こうしてその時代の楽器を使って演奏し、聞かせてくれたテレマンの皆さんに心から感謝です。
今日私が見たのは ベートーベンと私がつながったその糸です。
200年も前の人とつながっている事が見えたのです。感じたのです。
こうした演奏会がどんどん広がって大阪のあちこちで演奏されるようになると、昔の時代の作曲家達とのつながりの糸があちこちに張り巡らされます。
そのとき、大阪は 大きな流れに流されず、揺るぐ事の無いアイデンティティーをもって 地に足をしっかりとつけて、自立している事でしょう。
そうですよ。
一つ一つの楽器の進歩が 必ずしも作曲家の意図を更に表現できるようになったのではないように、「目には見えない大切なもの」にいち早く気づき、手放さないように大切に育てる大阪でありたいです。
目には見えない大切なものは 私たちの感覚の中にしか残り得ないけれど、同時に 誰もそれを犯す事はできません。
ああ、私の言葉は今日の感動を伝えるには不自由でありすぎます。
今日、私は、その刺激で脳がめちゃくちゃになるほど揺るがされました。
今日の文章が分かりにくかったら、そういう訳ですので、ごめんなさい。
きっと、価値観や価値基準もまた 新しい素敵な方へと広がっただろうと思っています。
いつか、それが言葉になりますように。

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