句会で皆さんに聞いてみたいことがあるのに、聞けていないことがあります。
批判めいてしまうからですね。。。。。
大きくいうと、俳句は作句をした人とそれを鑑賞する人の双方がいて成立している・・・と思うのだけれど、鑑賞する人について語られることがないということに関して。
つまり、鑑賞者の感性によって 読まれ方が変わるところが面白いとは言え、その鑑賞者の感性の枠が小さかったら、俳句そのものを受け止めてもらえないんじゃないかという疑問があるのです。
具体的にいうと(ここから批判がましくなっちゃいますが)、奥さんがパーマをかけてきても、もっと酷い人は髪型を変えても全然気づかないような人が、生活の何気ないところに見出した「詩」について書かれたものを感じ取ることができるのか?・・・という疑問があるのです。
なんで、こんなことを言うかというと、そんな生活の何気ないところを「ああ、いいなあ」と思った時に句を作りたくなるのだけれど、「受けないだろうな・・・」と思ってしますからです。
俳句が自然を読むことが多いのは それならみんなが共通して感じるものが多いからなのでしょうね。
でも、私のように全く土のないところで育った人間、しかも今も市内に住んでいると、どうしても季節を感じる範囲がちっぽけになってしまうのですね。
逆にいうと、私はそうした自然を読んだ句がピンときにくいという事になりますよね。
だから、それでいい・・・という事になるんだろうなとは思っています。
けれど、男の人たちに生活の何気ないところにある詩が伝わるような社会だったら・・・・・きっと それはとてもいい関係を築けている社会だと思うんですよね。
‥・・・とまあ、愚痴のような「句は社会を映すなあ」という感想なのでした。
実はね、朝風呂に入っていて、お気に入りの石鹸で顔を洗ったときの泡の感触、手と顔の間にある泡の感触について何か書きたくなったのですが、「受けないだろうな」と思って、まあちょっと愚痴りたくなったみたいですね。

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