プレバトを見ていると夏井先生が時折「季語を信じる」という言い方をしています。
それって基本的に「言葉の力を良きものとして捉えている人」の言い方だなと思います。
私は子供の時に、言葉のマイナス面、例えば実態のない熟語を形成し、人を煽ったり脅したりするとか。
言葉に抗えないような価値を持たせて、自分をがんじがらめにしたりとか。
そんなことに気付き、私自身が肉体のない生活をしていると気付いてからは、ずっと言葉というものに抵抗して生きてきました。
だから、夏井先生の「季語を信じる」という言い方を聞くたびに「この人には肉体があるんだなあ・・・」と思ってしまいます。
俳句の師匠、
坪内稔典のモーロク日記を読んでいても、同じことを感じます。
言葉の力を信じている人は 圧倒的な肉体があるんだろうなって。
体を使って遊んできた経験が、その肉体が、俳句作りを支えています。
羨ましい。
私の俳句作りは 拒否してきた言葉を取り戻す作業だと思っていますけれど、なにせ、肉体とつながっていると感じる言葉が少なくていけない。
第一、稔典さんたちのように、芭蕉のように、言葉で遊ぶということができないのです。
そんなゆとりがないからです。
肉体と言葉がなかなか結びつかないと思っている私は 言葉をそのように使うことができません。
狭っ苦しい私の言語世界で作句しようとすると 狭っ苦しいつまらないものしかできてこない。
それでも、俳句の世界にしがみついていたいのは、やはり、言葉の力を信じたいからだと思っています。
稔典さんには申し訳ないのですが、私が習った時から驚いて、一番だと思っている俳句は芭蕉の俳句です。
「五月雨をあつめて早し最上川」
これが好きです。
好きというか驚きました。
時間と空間の壮大さが心を捉えます。
五月雨って、しとしと降っていますよね。
山々に、里に村に。
で、それがやがて小川になり、小川が集まって最上川になる。
その時にはそのしとしと雨が きっと茶色の豪流になっていて、恐ろしさも感じるくらいです。
自分が今感じているしとしと雨が 目の前ですごい勢いの最上川に変身している。
そのしとしと雨から最上川になって行く時間も感じるし、山々や里から目の前の最上川になって行くという空間の大きさも感じます。
圧倒されている芭蕉の小ささも。
それがドキュメンタリーとか今で言うなら動画投稿みたいにドラマチックに感じて好きなのです。
この句なら、私は自分の中にあるものと句とが呼応して迫ってくるのを感じることができるのです。
そして、言葉の力を感じます。
そこに行きたい。
そして、私は稔典さんの句が好き。
稔典さんの句には稔典さんがいると感じることがあって、そんな時私は笑顔になってしまいます。
「三月の甘納豆のうふふふふ」
稔典さんが何とおっしゃろうと、この句からはパートナーと一緒に甘納豆を食べている稔典さんが見えてきます。
3月とはいえ、まだ冷えたりして、たまにコタツに足を突っ込みます。
2人で甘納豆を食べて、楽しくて、美味しくて、「うふふふふ」と笑います。
そんな2人が見えてきて、私も甘納豆を食べていなくてもこの句を読んだだけで「うふふふふ」となってしまいます。
それが言葉の力、この俳句の力です。
生きているのだから、私には肉体があると言うのに、それを意識できていないことが分かりますね。
もう少し、「感じながら」生活しようとしなければいけません。
そして、感じたことを言葉にする努力をしないといけません。
肉体がないと、どうしても理屈っぽくなってしまうのでね。
今のナチュラルな私から、本来のナチュラルな私に行くのに、どの道を歩いたら良いんだろう?
モモなら教えてくれるかなあ。
私のブックカバーチャレンジ、次は「モモ」にしようかな。

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