今季で契約満了となる坪井ちゃんと契約を更新しないことがREDS公式で正式発表されました。
■ 14.11.08 坪井慶介との契約について (REDS公式)
スピードを活かした “正統派のストッパー” の坪井ちゃん。
3バックとはいっても守備以上に攻撃的な役割を要求されるミシャ監督のサッカーでは、
そのサッカーに馴れ親しんだ所謂 “本職”の森脇が加入してからはベンチに回ることが多くなり、
永田さんが右サイドで起用されるようになると、ベンチに入ることすら厳しくなってしまいました。
ミシャ監督1年目の2012年は3バックの右でレギュラーとしてACL出場権獲得に貢献しましたが、
森脇が加入した2013年は出場機会が激減し、今年は昨年以上に試合に絡むことが出来ませんでした。
今季の坪井ちゃんの処遇から覚悟はしていましたが、いなくなってしまう現実に寂しさを感じます。
坪井ちゃんが浦和に加入したのは2002年。
2001年ユニバ北京大会の優勝メンバーで平川、山根、三上、堀之内と共に浦和に入団しました。
当時は大学卒は伸びないといわれていた中での獲得だったと記憶しています。
ユニバ5人衆の中で坪井ちゃんはオフト監督に認められ開幕からスタメン出場を果たしました。
誰にも負けない“速さ”は坪井ちゃんの武器でした。そのクリーンで確実なプレーに目を奪われました。
坪井ちゃんは当時浦和に在籍していた井原さんの大きな背中を追いかけているように感じました。
新人だった2002年はフェアプレー賞と新人王、ナビスコカップのニューヒーロー賞を受賞しました。
坪井ちゃんの初ゴールは2003年の駒場で行われたG大阪戦。
終盤にマークについていたマグロン選手に悔しい勝ち越しゴールを決められたあと、
ロスタイムにFKに合わせた坪井ちゃんのヘディングがバーに当りラインの内側に落ちました。
プロ初ゴールなのに怒った顔のままだった坪井ちゃんが印象的で、
ゴールの喜びより、マークについていたマグロン選手に決められた自分に怒っているようでした。
笑顔の坪井ちゃんの自分に厳しい一面と、秘められた激しい闘志を感じられたゴールシーンでした。
このゴールが浦和レッズで坪井ちゃんが決めた唯一のゴールでした。
2003年には日本代表にも選出され、ベストイレブンにも選出され、飛躍の1年になりました。
浦和レッズにとってもナビスコカップを制覇する記念すべき、記憶に残る年になりました。
ナビスコカップ決勝では、1点をリードした前半終了間際に競り合いの中でエメと激突し大流血。
そのまま担架で担ぎ込まれ、15針も縫いながらも頭を包帯でグルグル巻きにして後半から戦列に復帰。
坪井ちゃんがいなかった前半の残り時間の長かったことは今でも忘れられません。
坪井ちゃんがピッチに戻ってくるまで、10人で守り切れば絶対に勝てると信じて疑いませんでした。
ここを凌げば、ここを守れば、坪井ちゃんは絶対にピッチに戻ってくるんだと。
後半に包帯でグルグル巻きになった坪井ちゃんの姿を見たときに浦和の初戴冠を確信しました。
実は赤豆さんは2003年の坪井ちゃんでもう一つ記憶に残っている試合があります。
ナビスコ初優勝の勢いそのまま、浦和は2ndステージ制覇に向かって波に乗っていました。
ナビスコ決勝後のリーグ戦でも首位の東京Vを撃破し、首位で乗り込んだアウェイ清水戦です。
優勝を狙う浦和は累積警告の出場停止でエースのエメを欠いており、
澤登選手と高木選手の2人が退場して9人となった清水から最後まで得点を奪うことが出来ず、
終了間際に坪井ちゃんのミスから安貞桓選手に決勝点を許し、痛恨の負けを喫してしまいました。
致命的なミスを冒した坪井ちゃんは、下を向くことなく眦をあげてゴール裏を見つめていました。
唇を真一文字に結び、浦和サポーターを鋭い視線で睨みつけていた坪井ちゃんの姿は忘れられません。
坪井ちゃんは着実に日本を代表する選手に成長していきました。
2004年、代表キャプテンを長く務めた井原さんの引退試合でその後継者に指名されました。
国立競技場で行われた井原さんの引退試合のセレモニーではオープンカーの運転手を務めました。
浦和というチームを去る井原さんは、坪井ちゃんに後を託して引退するという象徴的な光景でした。
イガグリ頭の坪井ちゃんは、可愛いだけで無邪気にいつもの笑顔を浮かべているだけでしたが…。
井原さんが 「坪井、浦和のことは任せた」 と言ったかどうかは分かりませんが、
浦和のキャプテン井原さんは、代表のことも浦和のことも坪井ちゃんに託したんだと感じました。
2006年のW杯には代表に選出されましたが試合中に足を攣り途中交代を余儀なくされました。
その力を発揮することなくW杯の舞台を去ることになり、大きな悔いを残す大会だったと思います。
赤豆さんにとっては身近な坪井ちゃんがW杯の舞台に立っていることが特別なことで、
大会が始まる前から楽しみにしていただけに、失意のままピッチを去る姿を見るのが辛かった。
W杯の舞台での挫折が心に深く刻まれ、その後のプレーへの影響は大きかった。
大会が終わると代表での出場機会が少なくなり坪井ちゃんの雄姿を見ることは出来なくなりました。
赤豆さんの代表に対する興味も次第に少なくなっていったのもこの頃かもしれません。
坪井ちゃんが自信を持ってプレーをしていた2003年から2007年の間、
風のように疾走する坪井ちゃんと連動するかのように浦和は多くのタイトルを獲得しました。
浦和が獲得したタイトル全てに、坪井ちゃんは選手として貢献してくれました。
浦和に栄光の光が当たるとき、常に坪井ちゃんのイガグリ頭と笑顔がそこにありました (=´ー`)
2008年に浦和でのプレーに専念するためという理由で代表からの引退を宣言しました。
W杯が終わってから坪井ちゃんにとっては、日本代表は大きな重しになっていたのかもしれません。
坪井ちゃんが坪井ちゃんであるために、浦和でのプレーに専念したかったのだと思っています。
オジェック、ゲルト、フィンケ時代の坪井ちゃんは
堤やスピラなどとポジションを争いながらも、浦和の守備の要として堅実なプレーを続けました。
坪井ちゃんが最も苦境に立たされたのは、浦和が2度目の降格危機に立たされた2011年でした。
ペトロはなぜか坪井ちゃんを起用せず、ようやくシーズン初出場を果たした16節清水戦で先発するも、
前半のうちに交代を命ぜられ、それ以降はベンチにも入れなくなり戦力外の扱いを受けました。
先制されたとはいえ、坪井ちゃんのプレーに問題があったとは思えず、あまりにも理不尽な交代でした。
それでも練習から手を抜くことはなく、いつ来るかわからない出場機会のために準備を続けました。
降格危機に瀕した浦和は終盤で当時ユースの監督を務めていた堀を監督に起用。
浦和のため、自分のために真摯にコンディションを整えていた坪井ちゃんは再び出場機会を得ると、
降格の影に怯え、苦しむ若い浦和レッズのJ1残留に貢献してくれました。
ミシャ監督の1年目は再びレギュラーとして3バックの一角を担いましたが、
監督のサッカーを熟知する森脇が加入すると控えに回ることが多くなり出場機会が激減しました。
そして今季は永田が坪井ちゃんのポジションをこなすようになり、ベンチ入りも難しくなりました。
しかし、ミシャ監督のサッカーに触れ、新たな楽しさを知ることとなり、
出場機会がないのは自分のプレースタイルと戦術との相性が理由であると理解していたと思います。
2011年に出場機会を失った時とは違い、精神的に追詰められることはなかったのではないでしょうか。
2012年に再びサッカーをする喜びと新たなサッカーへ取り組む楽しさを知り、
ACL出場権を得ることに貢献する中で、自分に出来ることと出来ないことが整理されました。
そしてやっぱりいつ来るかわからない出場機会のために真摯にサッカーに取り組んでいたと思います。
■ 14.12.12 坪井慶介 湘南ベルマーレへ完全移籍 (REDS公式)
サッカー選手として坪井慶介は決断をしました。
今季を最後に浦和を離れるだろうということは、頭の中では薄々気づいていました。
スピードを活かした “正統派のストッパー” の坪井ちゃんを必要とするチームがまだあります。
ベテランとして、代表としての経験、数々のタイトルを獲得してきた経験を活かす場所があります。
来季、坪井慶介は湘南の選手として、埼玉スタジアムにその雄姿を見せてくれるはずです。
風のように疾走する坪井ちゃん。
井原さんの背中を追いかけ続けた坪井ちゃん。
プロ初ゴールなのに怒った顔のままだった坪井ちゃん。
15針も縫いながらも頭を包帯でグルグル巻きにして戦列に復帰した坪井ちゃん。
唇を真一文字に結び、浦和サポーターを鋭い視線で睨みつけていた坪井ちゃん。
優しい笑顔の裏に、燃えたぎるような激しい闘志を秘めていた坪井ちゃん。
坪井ちゃんのこれからのサッカー人生が、多くの笑顔に包まれ、幸多いことをお祈りします。
そしてまたいつか、共に過した、共に戦った、坪井ちゃんが愛してくれた浦和の街で会いたいです。
“共に戦ってくれてありがとう”
浦和に栄光の光が当たるとき、常に坪井ちゃんのイガグリ頭と笑顔がそこにありました (=´ー`)

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