原口元気の名前を初めて耳にしたのはテレ玉か日テレの放送だったと思います。
チャンネルを回していたときに、たまたま放送されていた少年サッカーの中継が映りました。
元気は江南南の選手として、周りの選手たちとは次元の違うプレーをしていたと記憶しています。
「凄いなぁ…この子」 とは思いましたが、浦和レッズの選手になるとまでは想像できませんでした。
それでもこのときから “原口元気” という名前はずっと頭に残っていました。
その後、元気は浦和レッズの下部組織に入り、ボーイズマッチにも出場していたようですが、
ユースの試合を見る機会がなかった赤豆さんが 「あっ、あの時の江南南の子だ」 と認識したのは、
2006年の暮れにスポーツ紙に載った “浦和 15歳怪物FWをトップ登録へ” の見出しでした。
「中3なのにユースの3年生をぶっち切る。シュートもパスも出せる」
記事には当時のGM修三さんが、将来のミスターレッズ候補として期待するコメントもありました。
元気のプレーを実際に見ることが出来たのは2008年のナビスコ予選の名古屋戦でした。
浦和から代表に7人が召集されていたこともあり、2種登録の峻希、元気に出場機会が訪れました。
試合結果は…ま、まぁ開始早々の失点で…い、いや、アウェイだったしさ… (;´ー`)
チームが負けている厳しい状況でしたが、元気は初めてプロのピッチに立ちました ( ´ー`)
久しぶりに目の前に現れた元気は、愛する浦和レッズの赤いユニホームに袖を通していました。
浦和レッズのユニホームを着てサッカーをしている元気を見れたことが単純に嬉しく笑顔になりました。
あのときの “元気君” が浦和レッズの選手としてピッチに立っていることが不思議な感覚でした。
元気が所属した浦和ユースは、この年、高円宮杯決勝で衝撃的なスコアで優勝を果たします。
ACLを獲りながらリーグ連覇逃した翌年、トップチームのサッカーに暗雲が立ち込めてきた時期だけに、
この時、元気、直輝、濱田、峻希、阪野、永田、岡本を擁したユースのサッカーには魅了されました。
直輝がハットトリックを決め、元気も右足で豪快なボレーを叩きこんだのを覚えています ( ´ー`)
「このサッカーをトップチームで見たいね」 と仲間と数年後を夢見て話し合ったように思います。
この試合のあとから、赤豆さんは機会があれば浦和ユースの試合を見に行くようになりました。
2009年、2種選手として参加していた1月のキャンプ中に、プロ契約を締結したことが発表されました。
この日から “元気君” は浦和レッズに所属する原口元気というプロのサッカー選手になりました。
フィンケ監督と同じく 「一瞬の流れ星」 ではなく、「輝き続ける星」になって欲しいと願いました。
元気の魅力は、周囲が危うさを感じる程、感情を剥き出しにすることだったと思っています。
抑えきれない感情、怒り、喜び、そして涙、それは計算されたものではなく元気の真実の姿でした。
時には間違った方向に向かうことがあったとしても、それを隠さずに次への糧にし続けたと感じます。
勝てずに悔しさを露わにし、交代を命じられ怒りを爆発させ、サポーターの声援に涙する。
ピッチで見せてくれた魂の発露、負けることを拒否し続け、最後まで絶対に諦めない強い意思。
その全てが原口元気であり、その包み隠さぬ人間臭い感情に触れていたいと思うようになっていました。
浦和に加入してからの元気は決して順風漫歩ではなかったと思います。
フィンケ監督の下でプロとしての第一歩を記し、求められるものと自分のプレーの違いに葛藤し、
自由を与えられた2011年には残留争いに苦しむチームの中で大きな責任と重圧を感じたことでしょう。
主力として戦うチームが勝てないことに、自分のゴールが勝利に繋がらないことに悩み続けました。
ただひたすらにゴールを目指すしか元気にできることはありませんでした。
2012年にはミシャ監督から与えられた1トップというポジションで苦しみ続け、
オリンピック代表からも漏れた失意の中で、雨が隠してくれた涙のゴールは魂の叫びだったと思います。
元気の胸に去来する思いがどんなものであったのかを容易に想像することはできませんが、
溢れる涙を隠そうともせず、感情を爆発させるその姿は赤豆さんの胸を熱くさせるものがありました。
昨年はナビスコカップで、渇望していたタイトルにあと一歩と迫りながら唇を噛む結果となり、
覚悟を持って9番を背負った今年も、ワールドカップ代表にその名が呼ばれることはありませんでした。
発表が近づくにつれて思うようなプレーが出来なくなっていく元気にもどかしさを感じていました。
元気はどんなに挫折を味わっても、必ずそれを次へのエネルギーに変えてきたと感じています。
昨日よりも今日、今日よりも明日、プレーの幅は広がり、選手として確実に成長を遂げてきました。
未熟な精神を露呈することがあっても、“誰にも負けたくない”という信念に迷いはなかったと思います。
元気は負けたくないのです。相手にも、仲間にも、監督にも、自分にも。
「タイトルを取って移籍金を払ってもらって、評価されて行きたい」
いつかこの日が来ることは覚悟をしていましたが、まだ先のことのようにも思っていました。
元気も 「浦和でタイトルを」と渇望しており、浦和の9番として今季は一緒に戦えると思っていました。
今季は開幕からいろいろなことがあり、1試合、1試合がとても大切に感じていたし、
このメンバーで必ずタイトルを獲って2014年を締め括らなければという気持ちが強かったのです。
新たに9番を背負った元気も、開幕から主力として活躍し、一段と成長したプレーを魅せてくれました。
元気の移籍が発表され、ラストゲームが終わり、セレモニーが終わったいまも実感がありません。
リーグ戦が中断し、元気の移籍報道が出てからの2試合に元気の姿はありませんでした。
消化試合だったナビスコ名古屋戦。この試合を最後に元気の姿を見ることはなくなってしまいました。
最後の名古屋戦では、自分の全てを魅せようと懸命にプレーする元気の姿をずっと追っていました。
確かめるように、噛締めるように、これまで以上に最良の判断を心がけたプレーだったと思います。
元気のゴールは見ることは出来なかったけれど、現時点の原口元気を魅せてくれたのだと思っています。
元気と共に戦ったチームは、首位でワールドカップによる中断を迎えました。
しかし、ワールドカップを終えリーグ戦が再開されても、ピッチにもう浦和の9番の姿はありません。
元気自身が思い出のゴールと言う 2011年の大宮戦でのゴールは衝撃的なゴールでした。
相手に引き倒されピッチに顔を押し付けられても、左足を振り抜いて決めたゴールが原点です。
ゴールを捕らえた鋭い視線は光を失わず、ボールを叩き込むことだけに集中したプレーでした。
そこに相手は関係なく、邪魔するものを蹴散らす、“誰にも負けたくない” 原口元気そのものでした。
原口元気はヘルタ・ベルリンに移籍します。
キレのあるドリブルも、美しい弾道のシュートも、走る姿も、流した涙も、いつまでも覚えています。
天真爛漫な笑顔も、ふくれっ面も、怒った顔も、泣き顔も、きっときっと忘れることはないと思います。
あの日見た少年が、浦和に加入するとは思ってもいませんでした。
成長する過程をずっと見てきた元気が移籍することはとても悲しいです。
覚悟はしていても、やはり元気がいなくなることを受け入れられない自分がいます。
いつも危なっかしかった。元気にはずっとハラハラさせられたし心配でした。
それでも成長を止めない元気から目が離せませんでした。元気の若さ溢れるプレーが好きでした。
ピッチで戦う姿勢が好きでした。感情を爆発させ闘志を前面に出す原口元気が大好きでした。
ゴール後にエンブレムを誇示する姿も、拳を天に突き上げる姿も、もう見ることはできません。
いままでその戦いを見守った 「9番」 は、煌めくような輝きを残して浦和の地から姿を消します。
これまで共に戦ってこれて楽しかったよ。元気の放ち続けた熱さに触れることが出来て良かったよ。
「僕が帰ってくる場所は浦和レッズだけです」
ドイツに行ってもっともっと凄い選手になって浦和に戻ってきてください。
日本一の凄い選手になったら相談にのるよ。世界一の凄い選手になったら戻ってきてもいいよ ( ´ー`)
でも、元気には帰ってくることなんて考えずに、その先の夢に向かって我武者羅に頑張って欲しいな。
“We Stand Beside you Forever Always”
元気のドイツでの成功と、これからのサッカー人生が素晴らしいものになることを祈っています。
そしてまたいつか元気が“浦和の赤いユニホーム” に袖を通す日が来ることを楽しみに待っています。
世界で輝け!元気! 頑張れ!元気!!

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