2006/9/21

ありきたりな話ですんません  おもうこと


◇ずっと思っていた。
世の働く大人たちの皆と同じように、自分の時間が欲しいぞ、と。

でも、今にして、その「自分の時間」と言う定義が、おそらくはまったく曖昧だったような気がするのだ。


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   ラリーんちのシンディーくん

例えば、出張中に好きなライブがあっても行けない。
例えば、仕事が忙しくて温泉に、ダウンヒルに、映画に、芝居に、買い物に、花火大会に、お花見に、習い事に(ぷぷ)、などなど、「ほとんど」行けない。
本を読む時間だって「ほとんど」ない。
ああ、だから「自分の時間」が欲しいよお、って。

そんなもんだ。

ま、早い話、塾に行かにゃあならんのでテレビゲームをする時間がすくないよお、ってな感じ。
考えるまでもなく、おいらは親に言われていやいや塾通いを始めたわけではないし、ゲームが「ほとんど」出来ないだけで、まったく出来なくなってしまったわけでもない。
まさしく、ないものねだりをする子供の如き振る舞いが日々の心情になっていたようだ。


おいらはこの仕事が本当に好きで始めた。
時間や体力的に厳しいのは比較対象の問題で、おいら以上に厳しい仕事をこなしている大人はいっぱいいる。
いや、人に限った事でわない。
例えば皇帝ペンギンはどうだ?
極寒の中、ずううっと、子育てと餌集めだけだ。
花火大会を観にいっている奴など、まずいない。
ううむ。
皇帝のくせして、皇帝ペンギンのほうがまったく厳しそうだ。

その点、おいらは紛れもなく代表的庶民だし、ましてや好きで始めた仕事である。
なんの不満があろうことか。

なのに、いつの間にやら、仕事での第一義とする達成感は、そこにまつわる二次的な義務感や環境から生まれる必然的なプレッシャーによって熱を奪われ、幾重にも幾重にもまるで氷の層に包まれるかのように氷結していったのでわあるまいか?
そして、その中心で凍っていたそれは、それこそが、本当の意味での「自分の時間」だったのでわあるまいか?

図らずとも、今回、長い間ずっとお世話になった方々ひとりひとりにお礼や挨拶をしていくことで、幾重にも層を成していた氷のような義務感やプレッシャーは溶け出した。
それは不思議な現象であった。
少なくとも、それを意識できる事が、自分にとって、とても不思議な思いであった。
いろいろな場面を思うと全てが楽しかったと思える、その不思議さとも重なる不思議。

そして、現地ですべての仕事が済んだ今、あんなにも欲しかった「自分の時間」は皮肉にも、全ての時間の流れの中心にあったんだって、理解した。
んで、不思議と思えたのわ、実は、あるべくものが解りえなかった違和感にすぎなかったのだ。


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 デイトン飛行場で長年出張を共にしたばっぐくん


おいらはちゃあんと「自分の時間」を持っていた。
いや、誰よりもずっとずっと十分に持っていた。
ただ、それに気づいていなかっただけだった。
まあ、それに気づかず、たとえ願っていた「自分の時間」が幻だったとわいえ、それが希望として存在していた事実を思えば、まったく救われないわけでもないのだが。


生きるとはまた、こおいうことの繰り返しなのかも知れない。

いつだって本当のことは見えにくい。
解り得にくい。
違和感の連続。
それを不思議と捕らえる思い。
日常となればなるほど、その中心にあるものは、見えていなかったりするわけで。

ん?ありきたりといえばありきたりの話だなあ。
まあよい。
要はここからの話だ。

流れ行くここからの新たな時間において、それが、短かろうが長かろうが、再び大切な何かを覆被してしまうような事のないように。ああ、絶対にそんな事のないように。
現実の中のほんとうの希望が見出せるように。
なんとしてでも。
じっちゃんの名にかけて。


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  (帰りは何とか順調で、珍しくすいていたノースの機内)




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