2007/6/10

結・久々にがんの事、帯津先生の事  がんになっちゃった




 流れてきに死について考える。

生きている以上、自分の死を経験できることはまあ、ない。
死んじゃった時は、文字どうり、死んじゃってるんで、自分でそれを感じることは出来ないのである。
ああ、つまらん。
ま、つまらないのであれば、つまるようにしてやればいい。

つまり、死んじゃった後の事わ、自分で好きに考えればよいのである。

だいたい、おそらくわ、死んじゃった後のことは全てが物語であろう。
あの江原氏がもっともらしく語る世界だって、彼の考えたひとつの物語なのだろうし、果たして、自分で考えるに及ばない諸氏がその辺の物語で納得する事も、また、良しなのかもしれない。
でも、おいらとしてわ、自分の事だし、せっかくだから、自分オリジナルのストーリーを考えないとちょっともったいない気がしてしまう。
して、どうせなら、出来るだけぶわぁ〜と、華々しく、壮大なストーリーが望ましい。

帯津先生の語る死後の世界もまた、スケールがでかい。
なんだか、ちょっと、わくわくしてしまう。(笑)

*******


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(↑この野草、名前がわかったのだ!「アカバナユウゲショウ」だって。赤花夕化粧!ううう。かっこええやん!)


死は負けということでわ無い、と説かれ、それを納得することで、果たして、自分の生を諦めたこととイコールなのであろうか?
希望を捨てることになるのだろうか?
がんに、病気に、立ち向かってないのであろうか?

答えは、否、である。

辛く、哀しくたって、自分なりの方法で病気に立ち向かい、希望を、未来を、そして自分の死をも、見据えること、それも揺るがない勇気であり、人生の価値、まさにそのものであると、おいらは確信できる。

そして、それは、帯津先生からもらった確信だ。

どんな状況にあろうと、こころがどうあろうと、ええいっ、弱いひと、強いひと、皆、だれだって同じように命に負けの無いことへの確信。

『人は生まれた限り死ぬのであって、その間にいろいろな目にあう。』
大方、そんなところの人生で、命に勝ち負けなど、ありようが無いでわないか。
その至極あったりまえの、至極当然なスタンスが、ついつい、もやってしまうのも生きている日常の副作用であろう。
なるほど、そんな副作用に惑わされることなく、人生の価値を見失わないで、とりあえず、命の導くまま、もうしばらくやっていきたいものである。







   (この章、おしまい)




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