2006/4/26

『私は私の主体でありたい』  がんになっちゃった




昨日紹介した『がんから始まる』をもうちょいと。


以下、本文より引用。

『再発は、したくないけれど、それ以上に、再発した時、「何か他に、出来たことがあったのでは」と後悔するのが、嫌なのだ。そのための精神的手続きを、踏んでいる。』

『再発する方に入れられるか、しない方に入れられるかを、座してただ待つことには、耐えられない。「確率」に支配されるしかない受動的な立場に貶められていることに、がまんならないのだ。私は私の主体でありたい。』


さすがプロの物書きの方は上手いことおっしゃるなあ。
おいらの漠然としたもやもやをすっきりと表現しちゃう。

さらに、
『がん患者として生きることは、人間としての主体性を、がんに譲り渡すまいとする、不断の格闘なのだ。』


クリックすると元のサイズで表示します



ついちょっと前、絵門ゆう子(もとアナウンサーでやはりがんの手記を発表していた)さんが亡くなった。
たまたまテレビチャンネルの移動中、このニュースをワイドショーでやってた。
ちょうど、朝までテレビの若き論客としてもてはやされている宮崎哲弥氏がしたり顔でコメントをする。
「世の中には代替療法をもてはやす風潮があるが哀しいかなその中にはいんちきなものが少なからず含まれる。哀しいけれど、そのことをがん患者は理解しなければならない」てな趣旨のことだ。
宮崎哲弥氏といえどこのありさま。
コラ宮崎!!
あんたのいうことなんざあ、がん患者はだれだって解かっているのだ。
そおいう無責任なコメントが『いろいろやっても、ほら、結局は、がん=死、だよ。』のイメージを世間にばら撒いている。
岸本葉子の声を耳の穴かっぽじってきけえええ〜〜〜〜!!


『代替療法の存在理由は、そこにあるのだろう。新聞広告の「奇跡」を頭から信じるほど、がん患者は、分別を欠いてはいない。効くかどうかはわからない、くらいの受け止め方をする、理性は持っている。』

そして、そこにあるのは、私が私の主体になりたい思い。

『死そのものを、ではなく、死に対し脅えることしかできないという状況を、克服したいのだ。
何もできず、運命の宣託を待つほかないという無力感を、乗り越える。あくまでも、未来に主体的に係わる生き方を、通す。
それはそれで、人間の尊厳を守るための、じゅうぶんに取り組む価値のある、精神的営みとはいえまいか。』


だ、このやろおお〜〜〜いとなみだああ〜〜〜このやろおお〜〜


ま、そおいうことなのだ。

昨日、1ヶ月ぶりの定期健診。
血液検査も、レントゲンも、腫瘍マーカーも、すこぶる順調なのだ。先生曰く、いまのところ、って、つくけど。
で、結局、再発しないためにおいら自身でできることを先生に尋ねる。
『タバコを吸わないこと。残念ながらそれだけです。』なのだ。


おいらのステージの肺がん患者は、統計では、術後、5年間生きていられるのは3割。つまり、5年後、7割の患者は死んでしまうのだ。
おいらはお医者から、そお言われている。
これって、かなり明確な死のイメージでしょ?


それなのに、それを阻止するためにできることは『タバコを吸わないこと。』だけなのだ。
これって、人間としての主体性を、がんに譲り渡してない?
死、そのものよりも、そのことが本当に悔しい。哀しい。苦しい。


おいらだって玄米食ってれば再発しないことが約束されているなあんて思っちゃいない。
でも、玄米を食う。
規則正しく生活をする。
コーラも飲まない。



自分でやれることをやっておきたい。
実存的な苦しみから自分を救いたい。

おいらがおいらの主体であるように、したい。






teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ