2008/2/17

あの世のサービス・その2  

 
 

◇さて、おいらのようないさぎの悪い輩ともなれば、どのみち、いざ死んでしまうときになって、なんかちょっと中途半端な、やり残したことのあるような、ベッドに入ってから、あ、もう一回、おしっこしとけばよかった、的な残尿感っぽい想いが巡るに違いない。
だから、「今日一日、十分生きた、明日死んでも構わない」境地に至るには、ま、程遠い。

ちょっと前、忌野清志郎が復活ライブのインタビューに答えてて「今を一生懸命に生きて今を精一杯考えて、ちょっと先のことは考えないようにしている」みたいなことを言っていた。おそらく、「今日一日、十分生きた、明日死んでも構わない」インディオの長老の境地に近づいているのだろうなあ。かっこええなあ〜と感心したおいらである。
やっぱ、がん患者たるもの、人前でさらっとそう言えんとなあ〜。


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がん患者の心境をあえて一言で表現すればそれはまさに不確定要素満載の生、である。
いや、人はみな死ぬのだから、がん患者じゃなくたって同じだよ、って思うでしょ?
それが、実際、ちょっと違うんだなあ。
「死」は必ずある。それを認識する。としても、現代において普通、生きていくってことは具体的な生を見越して生きているはずだ。
簡単なとこで年金問題だってそれの最たるものだ。
どうせ将来死んじゃうし、いつ死ぬか判らないから、まあ、いいや、って話でわないだろう。
ところが例えばおいらは2年前、あと5年で死ぬ率7割と言われる。
五年後(実際はあと3年)に生きている確立より死んでいる確立が高い、ってわけ。
かといって5年の間に絶対に死ぬって話でわ無い。
5年どころかあと50年生きられるかもしれない。

ほら、やっぱ、同じじゃん、でわない。

人はおそらく、基本的に、未成熟なこころを持ち続けているわけなので、この違いとして、後者は、まさしくこころに、生と死の、ある程度確立した不確定要素が生ずる。ぽこっと。

5年生きられないかもしれない。
でも、5年以上生きられるかもしれない。
この巡り巡るどうどう巡りの想いが毎日の生活の中でなにかとおっきなウエイトを占める。
年金問題だって、基本は、どうでもいいんじゃねえか的なのだが、いや、ひょっとして90過ぎまで生きちゃったらどうしよう?とか、グルグルグルグルするわけだ。

そおして本来は、辿り着くべく、「今日一日、十分生きた、明日死んでも構わない」境地が、在る。
なべて、戦国時代の武士とかは、いつ腹を切らされるか判らないのでそおいうものの考え方に至れるようちゃあんと訓練していたようだし(最初は人生を一生と考え、だんだん半分にしてさらにその半分、またその半分と、最終的に一日が全て、半日が全てと想える精神を鍛錬したそうな)戦時下においての生もまた、それに近いのかもしれない。

にもかかわらず、だ、冒頭のように、おいらのそれはなかなかその境地に至れないでいる。
ある意味、そこに至れないでいるのは、とても簡潔な思いでもあるやもしれぬ。
たとえば、30年後、ペプシのスター・ウオーズ・ボトルキャップ・コンプリートがコレクションステージ付きでお幾らになっているのか、ものすごく知りたい!たとえば、30年後、友達の○いこさんはどんなおばあ顔になっているのかものすごく知りたい!
いやね、そりゃあ人によっては50歳を過ぎたって起業したり、修行したり、めくるめく恋を願ったり、ってのもありなんだろうけど、おいらは、まあ、その辺わいいかと。
でも、近々死んじゃうとなると、○いこさんのおばあ顔はわからないままだし、携帯電話の行く末や、がんの特効薬とかわ果たして?とかひょっとかして生きていられる範囲での近未来な出来事が気になって気になって。
いや、もう、いさぎわるしの国からいさぎわるしを広めに来たかのいさぎわるしである。

でも、そのいさぎわるしおいらのあがきを、ちゃあんと見越している偉い学者さんもいたもんで、「死」を哲学する/中島義道 〜 の「不在と無」というテーマに似通った内容をみつける。
要約すると、「死」はそれをまったくの無とするからなんだか怖いのであって、死んでも100億年後に蘇生できて、ああ100億年経ったのだ、と理解できればその間の「死」は眠っていただけ、つまり「不在」としてとらえなおしている、ってはなし。


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で、今回の「あの世のサービス」なんだけど、確立わめっちゃ低くていいし、それでも、必ず、誰かが特等は5回、1等で3回、2等なら2回、3等だと1回限り、死んでから起こしてもらえるっていうのはどうだろう? 
んで、今回ハズレてもちゃあんと敗者復活組にいれてもらえるんだ。
出来ればアタリの人も何回かの抽選ラグはあっても、その後、また抽選に参加できるようにしておいてもらいたい。
別に、完璧に若返ったり元気に走り回れなくても良いので、死んでいる間、いろいろとどんなことがあって今、どんなんです、みたいなこと、知ることができる程度でよい。
勿論、その後はあらら〜こんなんになってたんだ〜って理解して、また死んじゃうんだけど。

怪しげな生まれ変わりとか前世がお姫様だったとかじゃなくて。
ちゃあんと自分の脳が自分をじぶんとして想起することが重要。

そおいう期待(死は完全な無ではないという期待)を持ってして死に挑めば流石、おいらのようないさぎわるしでさえも長老の境地に至るに造作はなかろうて。ぷぷぷ



おしまい(おしまいかいっ!)










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