2009/1/22

学んだこと、か?  其のいち  




◇文芸春秋2月号の筑紫哲也「がん日記・がん残日録ー告知から死まで五百日の闘い」を読んだ。
ほんまわ、「核心取材/秋篠宮が天皇になる日」につられて買っちゃったんだけど。おいら、秋篠宮ファンだでね。(いちきゅっぱの国旗も在るし。)


ま、ともかく、自分ががんになって、がん闘病記とかのそお言う類の本や手記で、書き手が死んじゃったやつは基本的にずっと読まないでいた。ドラマ、映画でもそおいうのはいっぱいあって、なんだか、人気らしいのだが、最後は死んじゃって、とりあえず哀しい。そんなの見てて楽しいのかねえ。ひとそれぞれなのでなんとも言えないけれど、哀しい→見ててつらい、って思わんのかねえ。わざわざドラマなんかで哀しい思いしなくてもきっと絶対、哀しい思いをしなきゃいけない時があるのにねえ。なのに、なんでわざわざ。おまけに、生きる勇気をもらいました。とか、感激しました。とか。そうなのか?とおいらは思うのだけれど。まま、重ねて、ひとそれぞれだけど。

でも、その意味で手記を読まないでいた、ってゆうのとはちょっと違うのだ。
もっと単純に、「がんで死んじゃう」ってゆうのが、なんか、やっぱ、すごくリアル感があってとても嫌だったから。
同じように、単純な理由で、「あんなに厳しかったのにあれから5年、私わ、今、こうして生きています!」ってのわ、漁って読んだけど。

で、今回、筑紫哲也。
まさに、書き手はおいらと同じ肺がんで死んじゃった。
正確には同じ肺がんではなくて、筑紫さんの肺がんはおいらのなんかよりもっと厳しい小細胞がんってやつで性質が悪い。
ステージだって3Bという厳しさ。テレビではそんなことゆうてなかったのになあ。
てな具合、そこらへん、考えながら、亡き筑紫さんのがん残日録なる手記、読んだ。
不思議と今回、苦手だったこの類の手記に何のためらいもなく、ごくごく普通に、読めた。
この手のものは、あんなに敬遠してたのに。
とても嫌だったのに。

なぜだろう?



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******


おいらはここんとこ、ちょっと心情に変化がある。
漠然と、もやもやと、ぐにょぐにょと、ずくだんずんぶんぐんと、在る。

がんになってもうすぐ3年だし、その心情の変化みたいなのを自分自身の言葉で、漠然とじゃなく、もやもやとでもなく、ぐにょぐにょとでもなく、ずくだんずんさんぷんとでもなく、ちゃあんと、まとめておきたいはずである。
そうしないと、この3年、中学生だって普通、大概、見事に卒業する勢いの3年、石の上にいれば、なんもせんでもなんかものになりそうな3年、アオリいかなんて、ああた、あんなに大っきく育つのに、たった1年しか生きちゃあいられないというじゃないか。なのに、おいらははや、がんで3年、だ。
がんだけで、アオリいかの三生分(一生の3倍)生きているってぇのに。

あれだ、なんか、こう、ちゃあんと、その辺の心情の流れだけでもまとめておかないと、いくらなんでも、学びが、無い。
まさに、あの世でアオリいかに合わす顔がない。(か?)



つづく(て、ここで?)






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