2009/1/26
学んだこと、か? その2
◇筑紫さんの手記には、こうは書きたく無いのだけれど、でもやっぱり、がん患者でしか解かり得ない部分が、ある。と、思った。
日々の心の微妙なぶれ、である。
日々の心のぶれ、は多分、誰にでもあると思うけれど、この「微妙な」という部分が、自分的に如何ともしがたい思いであり、この、微妙こそが、まるで震度計のみが僅かに感ずる地震、そして、その微細なる揺れを描き止めし記録紙に在る線のつながりの如く、それは実に極小ではあるけれど、長くどこまでも常に振幅する特有な「ぶれ」を意味するのだ。
例えば、善意の第三者による「元気そうに見えるけど、どうですか?」「もう、きっと大丈夫ですよ」って声に、ああ、本当にそうです、どうも有難う、って思うことができないのも、この微細な振幅によるのかもしれない。
「元気そうに見えるかも知れないけれど、これで大丈夫なのかどうか、自分がなんにも、わからんから困るのががんなんです。わからんこと。そこがなにより、一番辛いのです。自分はどうですか?とこっちが聞きたいわい。」ってことを実わ、こっそり思ってる『死と生を行き来する極小な振幅』が、常に、在る、から。
そんな小言みたいなことを筑紫さんは一切、書いてはいない。
書いてはいないが、日々続く小さな振幅。死と生の振幅。おれは大丈夫なのか?がん患者ゆえ真摯に伝わるこの振幅は果たして、とても、切ない。
自分はいつまで生きられるのか?
という自問は、また、自分はいつまで生きたいのか?にもつながる。
それは、また、自分はなぜ生きたいのか?にも。
筑紫さんのこころもまた、これと同じフレーズを自問していたように、思えた。
答えを導き出す自分のこころは死と生の振幅に煽られ、やっと搾り出したギリギリの答えにも、疑問符がつく。
そして。
振幅は、止む。

********
不安が終わるのはその不安が実際、来た時だ、という。
死と生の関係にもそんなニュアンスが含まれているのかも知れない。
********
おいらは今、55歳。
52歳でがんになった。
そのちょっと前、それまでの仕事にひと段落をつけて、違う何かをしようと決めていた。
自分が好きなことが出来る時間をちゃんと持って、なにかをしようと、考えていた。
そのために、ハードワークもこなしていたんだと。
もうちょっとだ、って思っていた矢先。
そこで、がんになっちゃったんで、え?なんで、ここで?
と、なりますわなあ〜ふつう。
当初、とにもかくにも生きたいと願い、そしてそれを願えば願うほど、相対しての、死、が意識の中に芽生えた。
どんどん芽生えた。どんどん防虫、である。
それはまるで、生と死が、白と黒で対峙するオセロゲームのように、だ。
白優位、そして、黒優位で、ゲームは進む。そんな感じ。
オセロのチップって当たり前だけど白のうらは黒です。
その裏と表の、とても近しいはずの白と黒は、でも、ある意味、存在の次元が違うんじゃないかと、思う。
つまり、白側はずっと白だし、黒側は、永遠に、黒。
あいまみえることは、ない。
とわいえ、チップはひとつ。
イメージの中でゲームは進み、なぜだか、最後は必ず全面が真っ黒になって、終わる。黒の勝ち。

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ゲームの終了は死。
意識として、黒優位を嫌い、負けてなるものかと奮う。
結果、生きたいと願う心は、どんどん芽生えるー死、を負のハイエンド(?)と認識することになり、それは死を出来る限り遠ざけたい、あっちいけ、あんたなんか知らん、無視無視、ぺっぺっぺ、ってな具合に、確固たる死との境界を、意識として持つ。
かくして死と生は、自らの意識の中できっちりと、分断されてしまう。
さらに、その意識は進化して、死は敗北、の意味を持ち、果たして、生きるべき思いは、生に、全力でアタックすることになる。
とわいえ、チップはひとつ、
つづく
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