ある一つの物の有用性は、その物を使用価値にする(4)。しかし、この有用性は空中に浮いているのではない。この有用性は、商品体の諸属性に制約されているので、商品体なしには存在しない。それゆえ、鉄や小麦やダイヤモンドなどという商品体そのものが、使用価値または財なのである。商品体のこのような性格は、その使用属性の取得が人間に費やさせる労働の多少にはかかわりがない。使用価値の考察にさいしては、つねに、一ダースの時計とか一エレのリンネルとか一トンの鉄とかいうようなその量的な規定性が前提される。いろいろな商品のいろいろな使用価値は、一つの独自な学科である商品学の材料を提供する(5)。使用価値は、ただ使用または消費によってのみ実現される。使用価値は、富の社会的形態がどんなものであるかにかかわりなく、富の素材的な内容をなしている。われわれが考察しようとする社会形態にあっては、それは同時に素材的な担い手になっている――交換価値の。
(4) 「およそ物の自然的価値(natural worth)は、いろいろな欲望を満足させるとか人間生活の便宜に役だつとかいうその適性にある。」(ジョン・ロック『利子引下げ……の結果の諸考察』、一六九一年、『著作集』、ロンドン、一七七七年版、第二巻、二八ページ。)一七世紀にはまだしばしばイギリスの著述家たちのあいだでは”Worth”を使用価値、”Value”を交換価値の意味に用いているのが見いだされるのであるが、それは、まったく、直接的な事物をゲルマン語で表現し反省された事物をロマン語で表現することを好む国語の精神によるものである。
(5) ブルジョア社会では、各人は商品の買い手として百科辞典的な商品知識をもっているという擬制〔fictio juris〕が一般的である。
「ある一つの物の有用性は、その物を使用価値にする」。そりゃそうだ。同義反復かも知れないくらい。で、(4)の注釈を見ると、「これは効用価値説?」と思えてしまう。やっぱ、労働価値説と効用価値説は経済の循環の切り方の違いなんだろうなあ。で、Worthはゲルマン語で、Valueはロマン語なんだろうか。
「商品体なしには存在しない」。映画とかのメディアであれ、野球観戦であれ、物質的支えがなければ商品足り得ない。しかし、今の時代、電子コンテンツという姿があり、これはネットワーク上では物質的支えがないわけではないけど、本質は幽霊のように存在する。ここに現在の商品を取り巻く難しさの一つがあるのだろう。第三次産業の隆盛から、この課題が浮上する。
で、そういう現代だからこそ、「商品体のこのような性格は、その使用属性の取得が人間に費やさせる労働の多少にはかかわりがない。」というのが、実感されやすいのである。ダウンロードの手間を考えよ。1個落とそうが、ガッショガッショ多数落とそうが、「労働の多少には(あんまり)かかわりあいがない。」
さて。そうは言っても、食べ物とか着る物とか、消費財の多くについてはやっぱり「その量的な規定性が前提される」ね。で、その使用価値の担い手の上手い消費の仕方ってのは、やっぱり大事なわけで、「商品学」なんて言葉があるわけね。んでもって、上手くかどうかは知らないけれど、ともかく消費されることで、商品は使用価値として「実現される」のだ。本願成就。
そういう次第で、本願成就を見届けた我々は、「使用価値は、富の社会的形態がどんなものであるかにかかわりなく、富の素材的な内容をなしている」ことを確認するわけなのだ。で、同時に、どないな「使用価値」であるか、んなことは商品学に任せておいて、もう一つの商品の側面について我々は以後、著者につきあわされるのである。「――交換価値の。」
交換価値ってのは、使用価値以上に抽象的だ。これはどうやら社会形態ってのに絡むらしい。で、商品ってのは、この社会形態とやらの中で交換価値の「素材的な担い手」になるようだ。まあ、抽象の世界をイメージしろ、ってことだな。

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