使用価値としては、諸商品は、なによりもまず、いろいろに違った質であるが、交換価値としては、諸商品はただいろいろに違った量でしかありえないのであり、したがって一分子の使用価値も含んではいないのである。
そういうわけで、交換価値は使用価値を一片も含まない。しかし、使用価値を持たない商品は交換価値になり得ないという事実を忘れてはいけないと思う。論理の前提は何か?
そこで商品体の使用価値を問題にしないことにすれば、商品体に残るものは、ただ労働生産物という属性だけである。しかし、この労働生産物も、われわれの気がつかないうちにすでに変えられている。労働生産物の使用価値を捨象するならば、それを使用価値にしている物体的な諸成分や諸形態をも捨象することになる。それは、もはや机や家や糸やその他の有用物ではない。労働生産物の感覚的性状はすべて消し去られている。それはまた、もはや指物労働や建築労働や紡績労働やその他の一定の生産的労働の生産物でもない。労働生産物の有用性といっしょに、労働生産物に表わされている労働の有用性は消え去り、したがってまたこれらの労働のいろいろな具体的形態も消え去り、これらの労働はもはや互いに区別されることなく、すべてことごとく同じ人間労働に、抽象的人間労働に、還元されているのである。
使用価値を問題にしない(捨象する)ならば、使用価値にまつわる属性も、有用性も消える。そして残るものは
同じ人間労働に、あるいは
抽象的人間労働に、還元されるのである。
労働価値説を受容した人間はスンナリと受け取られよう。だが、そうじゃない人間にとっては、飛躍を感じよう。使用価値にまつわる、物的・感覚的性情が除去され、交換価値が残るという論理は商品というものの本質を抉るために分かる。だが、どうしてその交換価値が「人間労働」となるのか? これを浮かび上がらせる作業について、K・マルクスは実は成功
していないという事実は、B.バヴェルクらが明らかにしたと小生は思う。しかし、実は失敗もしていない。トートロジーは、それ自身では、証明も反証もできないからだ。「外部」(あるいは事実)によって証明/反証される必要がある。しかし、今まで色々触れてきた経済学のどれも、それに失敗している。

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