ある物は、価値ではなくても、使用価値であることがありうる。それは、人間にとってのその物の効用が労働によって媒介されていない場合である。たとえば空気や処女地や自然の草原や野生の樹木などがそれである。ある物は、商品ではなくても、有用であり人間労働の生産物であることがありうる。自分の生産物によって自分自身の欲望を満足させる人は、使用価値はつくるが、商品はつくらない。商品を生産するためには、彼は使用価値を生産するだけではなく、他人のための使用価値、社会的使用価値を生産しなければならない。{しかも、ただ単に他人のためというだけではない。中世の農民は領主のために年貢の穀物を生産し、坊主のために十分の一税の穀物を生産した。しかし、年貢の穀物も十分の一税の穀物も、他人のために生産されたということによっては、商品にはならなかった。商品になるためには、生産物は、それが使用価値として役だつ他人の手に交換によって移されなければならない(11a)。}最後に、どんな物も、使用対象であることなしには、価値ではありえない。物が無用であれば、それに含まれている労働も無用であり、労働のなかにはいらず、したがって価値をも形成しないのである。
(11a) 第四版への注。――括弧内の文句を私が書き入れたのは、この文句がないために、マルクスにあっては生産者以外の人によって消費される生産物はなんでも商品とみなされるかのような誤解が非常にしばしば生まれたからである。――F・エンゲルス
俗説で「マルクスは、売れない商品を作っても労働しているというから価値が発生しているという。だから労働価値説は破綻している」というものがある。
社会的必要労働
まあ、最後の「どんな物も〜価値をも形成しない」で十分マルクスによって反論されている。
ただ、エコロジーの時代においては、「空気や処女地」などの「労働によって媒介されない」ものについて、価格をつける(実際、製造業に携わっていると、空気がただ、という
わけではないと言いたいのだが)必要が生じて来ていると思われる。エコとは直接関係ないが、原油の価格というものも「労働に媒介されない」価格と思われる。もし、産出に必要な労働
だけならば、1バレル10ドルくらいでも良いところは一杯あるらしい。労働価値説の破れ目はこういうところにもあると小生は考える。
「他人の手に交換によって」ということは、市場ということだろう。
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ようやく第一節完了。ふう。

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