いろいろに違った使用価値または商品体の総体のうちには、同様に多種多様な、属や種や科や亜種や変種を異にする有用労働の総体――社会的分業が現われている。社会的分業は商品生産の存在条件である。といっても、商品生産が逆に社会的分業の存在条件であるのではない。古代インドの共同体では、労働は社会的に分割されているが、生産物が商品になるということはない。あるいはまた、もっと手近な例をとってみれば、どの工場でも労働は体系的に分割されているが、この分割は、労働者たちが彼らの個別的生産物を交換することによって媒介されてはいない。ただ、独立に行なわれていて互いに依存し合っていない私的労働の生産物だけが、互いに商品として相対するのである。
違う使用価値が相対して商品世界を作る。裏側には違う有用労働があり、労働の世界の組み合わせ=社会的分業がある。注意すべきは社会的分業が商品生産の条件であり、商品生産が社会的分業の条件であるわけではない、ということだ。
独立した私的労働の生産物だけが、互に商品として相対する。この言葉に、商品生産の世界の孤立性、冷たさを感じる。その冷たさは「自由」とは裏腹なのだが。

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