そこで今度は、使用対象であるかぎりでの商品から商品―価値に移ることにしよう。
ということで、商品と価値の関係を以後見る。価値は交換価値だと思う。
われわれの想定によれば、上着はリンネルの二倍の価値をもっている。しかし、それはただ量的な差異にすぎないもので、このような差異はさしあたりはまだわれわれの関心をひくものではない。
例の等式のことはまだだ。あれ?
量的な差異にすぎないだって。以下課題にするのは交換価値じゃないのか??
そこで、われわれは、一着の上着の価値が一〇エレのリンネルの価値の二倍であれば、二〇エレのリンネルは一着の上着と同じ価値量をもっているということを思い出す。
おや? 交換価値のことやん。
価値としては、上着とリンネルとは、同じ実体をもった物であり、同種の労働の客体的表現である。
やっぱり交換価値やね。
ところが、裁縫と織布とは、質的に違った労働である。
で、交換価値を生み出すには交換されるもの同士(ここでは上着とリンネル(織物だね))は
質的に違った労働で作られると。これが交換の前提ということか。
とはいえ、次のような社会状態もある。そこでは同じ人間が裁縫をしたり織布をしたりしているので、この二つの違った労働様式は、ただ同じ個人の労働の諸変形でしかなく、まだ別々の諸個人の特殊な固定した諸機能にはなっていないのであって、それは、ちょうど、われわれの仕立屋が今日つくる上着も彼が明日つくるズボンもただ同じ個人労働の諸変形を前提しているにすぎないようなものである。
交換されるもの=他人がつくるものというのをイメージしていたら、こんなの来ました。多能工とか思い出したり。
さらに、一見してわかるように、われわれの資本主義社会では、労働需要の方向の変化に従って、人間労働の一定の部分が、あるときは裁縫の形態で、あるときは織布の形態で供給される。
って、モロ、多能工のお話やん。
このような労働の形態転換は、摩擦なしにはすまないかもしれないが、とにかくそれは行なわれなければならない。
摩擦が起きるとしたら多能工化による合理化とかかな。で、別の人が最初から分業している場合は特に揉めないかな。いずれにせよ、裁縫したり織布したりする分業というか、両方の労働は社会的に必要だわな。
生産活動の規定性、したがってまた労働の有用的性格を無視するとすれば、労働に残るものは、それが人間の労働力の支出であるということである。
さてさて、ここで来ました。
労働力
労働が様々な形態で現われるお話、上では同じ人が上着を作ったり(裁縫)、リンネルを作ったり(織物)している例が現われているのは、このお話のためだったんだね。同じ人が行なう労働の質は対象によって異なるけど、しかし、それらは同じ「労働力」が用いられているんだね、と。先行する偉大な経済学者とマルクスが分けられる理由はここだ!
裁縫と織布とは、質的に違った生産活動であるとはいえ、両方とも人間の脳や筋肉や神経や手などの生産的支出であり、この意味で両方とも人間労働である。それらは、ただ、人間の労働力を支出するための二つの違った形態でしかない。
まあ、そういうことで。人間労働に支出される<力>は労働力なのだ。<力>と書いたのは、今、ネグリを読んでいるからオマージュってことで。
とりあえずここで切ろうと。

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