僕の「仕事」は新聞記事を作ることだ。
なぜ「書く」ではなくて、「作る」と言うか。
それには、僕なりの「解釈」がある。
もちろん、記事はまず記者が書く。しかし、記者が書いた記事が、そのままの形で紙面に載ることはありえない。ひとつの記事が紙面に出るまでには、いろんな過程があるのだ。
デスクがチェックする、赤字を入れる、部長がチェックする、校閲が用字用語のチェックをする、面担が見出しをつけ、レイアウトを考える、印刷工が印刷する・・・などの作業を終えて、ようやく読者が目にする「記事」が出来上がるのだ。そういう意味で、僕はひとつの記事の製作過程のごく一部分を担当しているに過ぎない。
なので、僕の仕事は「新聞を作ること」です。
そうは言っても、元となる記事を書く記者がいなければ始まらないので、記者は新聞作成上最も重要な要素のひとつだろう。
その記者の重要な仕事のひとつに「取材」がある。取材にもいろいろあるが、その中心は「人の話を聞く」ことだ。
「人」にもいろいろある。
ここでいう「いろいろ」とは、「人種・民族」ということだ。
僕は部の性格上、「外国語」を使うことが多い(多いといっても、毎日誰かと外国語で話をするわけではない)。ロイター電やネットで取れる情報は、辞書があれば何とかなる。しかし対話となるとそうもいかない。
最近、イラク人の話を聞く機会があった。
彼が英語でしゃべり、ある方面では有名な女性が通訳をした。僕は英語はできないが、英語を母国語としない人の英語は大体分かる。簡単な質問も何とかなる。
彼の話が終わり、質問コーナーになり、僕は最初の質問を英語でした。そして他の参加者も一通り質問し、その間僕は2回目の質問を考えていた。ところが、「希望」って英語でなんていうんだっけ? いくら考えても浮かんでこない。僕はフランス語しかまともにできないので、フランス語では「espoir」がすぐに浮かぶのだが、それを英語でなんと言うのか、全く出てこなかった。
そこで仕方なく、日本語で質問し、彼女に訳してもらった。
ところが、彼女の訳は、僕が意図したものとはかけ離れたものだった。もちろん彼の答えも、僕が求めたものとは全く違うものだった。。。
ありゃりゃーと思ったけど、もういいやって思ってしまった。「もういいや」というのは、本当は記者として一番いけないことなのだろうが、それもまた自分の能力の無さのあらわれ。
僕は今、アラビア語の勉強をしているが、記者能力向上のためには、英語が使えるようになるのが先決じゃないか、というのは本当は自分でも分かっているのだが、その気になれない。
このジレンマは、やはり英語をやる以外解決されることはないのかな。

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