広島・長崎の思い出(7)
8日、午前中、大会会場でフランス人が「救護室はどこだ」と尋ねてきた。僕も人に聞いて一緒に行ってみると、サバ(アルジェリア系女性)が横たわっていた。お医者さんに聞くと「過労だ」とのこと。そりゃこの暑さで過密スケジュールじゃ倒れてもおかしくないよな。それにしても一緒に来た男たちの「やさしさ」と言ったら。「大丈夫か?」と声をかけるのはいいが、ちょっとは放っておいて寝かせてやれよ、と思いつつ(もちろんそう言ってやったが)部屋を出た。
次はジュリアンとのインタビュー。25歳。ジャーナリスト志望だ。パリで歴史の勉強をした後、ボルドーのジャーナリズムの学校へ。その後、パリジアン(パリの新聞)、リベラシオン、RMC(ラジオ・モンテカルロ)で研修。9月からパリジアンで働くことを希望している。

「追っかけ」ができたジュリアン
彼はパリの郊外、モントルイユのシテ出身だ。シテというのは、日本で言うと「団地」とでも言うのか、移民や低所得労働者などが主な住人で、さまざまな困難を抱えた若者も多い。彼はその場所で、10人くらいの友人たちと、そういう困難を抱える若者たちに「生きる喜び」を共有するために、一緒に勉強したり、音楽や演劇などの文化活動に取り組むサークル(市民団体)に関わっている。「なぜそんなことに関わるのか?」と聞くと「毎日顔を合わす彼らが困難を抱えていることを見て、彼らを援助する義務を感じる。放って置けない」と言う。
「なぜ日本に来たんだ?」と聞くと、彼は「サークルを通じてそういう話があったので、来てみようと思った。平和運動というのは、自分がやるもんじゃないと思っていた。いわゆる『平和主義者』というのは、マリファナを吸ってギターを弾いているヒッピーのような、現実逃避した連中だと思っていた。でも実際広島に来てみて、自分自身の中で変化が起きている。平和運動には正当性があることが分かった」と答えた。
原爆が落とされ一瞬にして多くの人が殺されたこと、被爆者が今も苦しんでいること、広島・長崎以上の犠牲を作り出す核兵器が今も存在すること、その核兵器が一発でもあれば世界は平和ではないこと。平和運動が「今こそ核兵器の廃絶」を訴える「大義」を理解したのだろう。
「なぜジャーナリストになりたいんだ?」と僕。「自分はそういう条件(若者が困難な状況におかれているという)の中で育った。外にいる人には内側の事が分からない。外と内の間にある『温度差』を埋めたいと思った。困難な状況であることは『運命』ではない。自分が伝えることで何か変わるかもしれないと思ったからだ」とジュリアン。
「核兵器は、抽象的で自分とは縁遠いものだった。しかし広島に来てそれが具体的になった。フランスに帰って人に聞かれれば、『広島であったことを見てみろ、それが核兵器だ』と言える。自分はジャーナリストを目指す者として、自分の見たものを人に伝えたい。より多くの人が知ることで、人の意識も変わるはずだ。フランスが核保有国であることを訴えたい。大手メディアに勤めれば編集長がそういう記事を許すかどうか分からない。しかし何もしなければ、物事は前進しないと思う」。
僕がいつかパリ駐在になった際には「協力者」となってもらうことを約束した。

寄せ書きしてもらった旗を持つニナとアイシャ

アディルに抱きつかれる僕
午後、世界のNGOとの対話フォーラムに参加。元国際司法裁判所判事のウィラマントリ氏が発言した。彼は、国際司法裁判所が1995年に「核兵器の使用は究極的には違法」という勧告を出した際、「いかなる状況においても違法」とする反対意見を出した人だ。
彼は「今世界は核使用の現実的脅威にさらされている」とし、NGOがもっと切迫感を持った運動をすることを強調した。
核兵器について、世界の人々は「実際に使うことはないんじゃないの」くらいに思っている向きがある。しかし、現実に核兵器使用を追求している国があることを忘れてはならないのだ。
夕方、いよいよビルジュイフ市の副市長とインタビュー。彼女は夫ともにアランの大親友。彼女たちとは2日目に対面していたのだが、なかなか時間が取れずにいた。アランによると、彼女は僕を見て「衝撃を受けた」そうだ。あまりの僕の「美しさ」に。
また余談になるが、あるフランス人の女友達が僕のことを「彼は神のように美しい」と言ってくれたことがある。日本人は僕のことを「正当に」評価してくれないのが不思議でならない。
このインタビューについてもすでに形にしているのでそちらをご覧いただきたい(これも読んでない人は僕に言ってください)。
自治体が先頭に立って「平和の文化」を広める。日本では想像がつかないかもしれない。もしそういう自治体が出てきても、「国」が潰しにかかるんじゃないか? 日本でも「地方分権」などと叫んでる連中がいるが、「独自の意思」を持つことには反対するんじゃないか? それは教育行政を見ればよく分かる。
さて、しっかりインタビューした後、「お楽しみ」の長崎夜景を見にケーブルカーで丘に上る。しかし100人以上の団体。だらだら歩きケーブル駅に着いたのはもう九時半。まあいろんな人と、いろいろおしゃべりする時間と思えば。。。
ケーブル駅でカンカンとチサに偶然出会う。チサにもらった電話番号をなくしてしまっていたので、どうしようかと思っていたところでの再会。僕たちは強く結ばれていたのね。後で連絡することにして、ようやく乗り込む。

ジュリアン(もう一人の)、すし詰めの車内
浴衣を着た添乗員さんが、「解説しましょうか」と聞くので「僕が通訳せんとあかんから黙っといてください」と断る。5分で到着。頂上でだらだらと過ごす。

ジュリー、人物と夜景を上手く撮る方法を知りません
下山して長崎駅方面に歩いて帰る。ニナと漫画の話をする。フランスではいまだに日本のマンガが流行っている。テレビでは、日本のアニメがフランス語で、タイトルも主人公の名前もフランス風に変えられて放映される。ニナは、これは知ってるか、あれは知ってるかと聞いてくる。僕はもうずいぶん前に、ゲームもマンガも「卒業」してるので、つらい話題だ。それに、若い女の子らしく、機関銃のごとく話す。でもかわいいから許す。
ニナがしきりに「エロキチ」知ってるかと聞く? 「エロキチ? なんじゃそりゃ?」と言い返すと、「エロキチ知らないの? 白いネコよ」と言う。もしかして「ハローキティ?」と聞くと「そう、エロキチ」。
フランス人は、英語(ハローキティが英語かどうか分からないが)でも何でもフランス語風に発音する。Helloは「エロー」 kittyは「キチ」で「エロキチ」になるのだ。勘弁してくれ。
ニナが教えてくれた情報で、一番ショッキングだったのが、アリゼという「アイドル歌手」が結婚して妊娠しているということだ。みなさんは、誰も彼女のことを知らないだろうが、コルシカ出身の彼女が出てきたときは、フランス中が大注目したのだ。来日したこともあるが、日本人受けはあまり良くなかったようだ。
その後いろいろあって、チサたちと合流したのが12時過ぎ。あまりにもお腹がすき過ぎて、食欲もなくなっていた。それでも、ちゃんぽんをちょっと食べたりして、その場にいた日本人とおしゃべりをした。みなさんお疲れで、寝てるやつもいた。
しかしその店は1時で追い出されたので、近くのホテルに泊まっている子の部屋にお酒やおつまみを持ち込んで2次会。楽しい時間はあっという間に過ぎ、お開きになったのは3時半だったっけ? カンカンとチサは、僕がおしっこをしている間に先に帰りやがった。。。

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