福祉とときまして、「きのこ」とときます。
そのこころは?
「胞子(=奉仕)のちからで大きくなります」
(京楽)
うまいなあ。
(ここからニュース)
NPO法人日本障害者センターが主催する「落語とトークのつどい」が18日、新宿区の箪笥(たんす)区民ホールで開かれ、約180人が参加しました。これは、同センターが毎年行う文化行事で、今年は、現在「差別用語」が含まれているためにほとんど上演されることのなくなった古典落語を聞きながら、「差別とは何か」を考えようと企画されたものです。
前半は、円楽師匠の弟子の三遊亭京楽師匠が、発達の遅れた青年がかぼちゃを売ることで社会とかかわり、その彼を厳しくも暖かく見守る人々を描いた「かぼちゃや」と、目の見えない主人公が、最後に長年自分を支えてくれてきた妻のありがたさを身にしみて理解する「心眼」の二本の落語を上演。「ばか」「どめくら」などの「差別用語」を含むためにテレビ・ラジオなどで上演されることがなくなった江戸の人情噺(ばなし)に、会場は大きな笑いに包まれました。
落語は、せりふに色を付け大きさも変えながらスクリーンに映し出すことで、落語独特の「間」を聴覚障害者にも楽しんでもらえるような趣向が凝らされました。
後半は「差別用語ってなぁーに?」と題して、京楽師匠、酒井広さん(元NHKアナウンサー)、橋本宗明さん(前ロゴス点字図書館館長)がトーク。
酒井さんは、メディアが「差別用語リスト」を作り、その言葉を含むものを中身の議論無しに一律に排除していることを紹介。「心眼」を聴いたのは初めてと言い、「こういう文化を伝えなければ」と語りました。
「テレビなんか見ないほうがいい」とも言っていました。
真打に昇進した直後に椎間板ヘルニアとなり、復帰した今でも五時間のマッサージが日課だという京樂さんは、「人間は家族・友人に支えられている。今の世の中、このことに気づかない人が多くなったような気がします」「障害を持っていてもそれを乗り越えて生きている人がいるということを、たとえマスコミが伝えなくても、一人一人が隣の人に伝えてくれたら」と語りました。
橋本さんも「他人の意見を聞く余裕のない人が社会に増えてきている」とし、差別用語に振り回されるのではなく、「その中身」を考えることが重要だと指摘。「差別と『揶揄(やゆ)』は違う。前者は排除の論理であり、後者は高い感性により相手を暖かく包み込むこと」、「『ばか』という発言の裏には、それを言うことの苦しみを乗り越え、あえてそれを言わなければならないという心の葛藤があること、優しさの裏返しとしての厳しさがあるということを理解しないといけない」と述べました。
つどいに参加した中途失聴者の男性は、「色付の文字がスクリーンに出て、手話では味わえない面白さが味わえました」、また視覚障害者の女性は、「愛情たっぷりの落語が聴けてよかったです。イヤホンガイドをもっと普及するなど、視覚障害者用のエンターテイメントがもっと増えるといいですね」と語ってくれました。 (ニュース終わり)
石原慎太郎のような「生粋の」差別主義者は喜んで「差別用語」を使い、それはそのまま本心を表している。そこには「人情のかけら」もない。
しかし江戸の人(の多く)は、そうではなかったはずだ。違い(障害)を尊重して(たとえそういう意識がなかろうとも)いたはずだ。「困っている人がいればみんなで助ける」のが常識だったはずだ。
「今の世の中、『弱いやつは徹底的につぶす』のが『国是になっている』」とは、先日聞いた、斉藤貴男氏の言葉だが、本当にそう思う(彼の話についても、いつか書きたい)。
何から始めればいいかは分からない。しかし、相手の言葉を聴くところからは始められるんじゃないか。
そのためには、「スローな社会」にせねばならない。「時短」を勝ち取らねばならない。
でも、それが実現できないままでも、とりあえず相手の話を聴く「心の余裕」を持つよう努力はできるだろう。まずは自分から。。。
長くなりましたが、最後に京楽さん一流の「落ち」でしめましょう。
京楽さんが車椅子生活を送っていた頃はまだ、駅にエレベーターも車椅子専用のスロープも普及していなかったそうで、いちいち駅の職員が複数で担ぎ上げて、よたよたと上り下りを手伝っていたそうです。
「怖いったらありゃしない」
これが本当の階段(=怪談)ばなし。
おあとがよろしいようで。。

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