高岳の交差点から桜通を西へ少し行った道路の南側に「富士神社」がある。戦前は、南北に富士塚町の通りがあった。真南に富士中学校がある。
もとは富士浅間宮、富士権現社又は富士塚権現とも呼ばれ、祭神は木花咲耶姫(このはなさくやひめ)である。伝承では、この地に応永5年(1398)に勧請されたという。『尾張志』には、二町四方の社域のほかに控地を有し、鬱蒼とした森に囲まれていたと記述される。その昔には山口の前山と呼ばれ、老杉古松四方に繁り、神威を感じさせる霊域であったという。
慶長15年(1610)名古屋城築城の際、浅野幸長が社域に普請小屋を設けたため、社は幅下(西区浅間町)に遷され、富士浅間神社として祀られた。これが、西区の浅間町の町名の由来となる。その後、再びこの地に社殿を建てて祀ったのが現在の「富士神社」である。
境内には、名古屋城築城の際に切り出された石垣の石が残されている。石の横面に□の紋様が刻まれている。
なお、富士浅間神社の祭神、木花咲耶姫は、大山祇命(おおやまつみのみこと)の娘で天孫降臨した瓊々杵命(ににぎのみこと)の妃となり、火照命(ほでりのみこと。海幸彦)、火闌降命(ほすせりのみこと)、彦火々出見命(ひこほほでみのみこと。山幸彦)を産む。彦火々出見命の孫が初代天皇の神武天皇となる。

桜通り沿いにある富士神社。本来の入口は、南北に走っていた富士塚町の通りに面していたと思われる。

社殿は、鳥居をくぐって直角に曲がった西側にある。桜通ができたため、仕方なく入口を曲げたのだ。本来は社殿に向かって真正面に入り口があったはずである。

これが、名古屋城築城の際の「残石」。

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