「侘び茶」は、室町時代後期に村田珠光が、一休宗純の思想的影響を受けながら創始したといわれる。その後、堺の町衆であった武野紹鴎をへて、同じく堺の町衆であった千利休によって大成される。
一方、織田信長や豊臣秀吉は、利休を茶頭にして茶の湯を愛好すると同時に、茶の湯を大名支配に利用した。その大名たちの茶道具への執着が、朝鮮出兵の際の朝鮮人陶工の強制連行という事態をも生み出す。有田焼も萩焼も薩摩焼も朝鮮人陶工によって生み出されたものである。
茶釜の世界でも、大名や数寄者たちは、好みの茶釜を作らせるためにお抱かえの「釜師」を確保した。武野紹鴎は、西村道仁(にしむらどうにん)。信長は、名越弥七郎(なこしやしちろう)。千利休は、辻与次郎(つじよじろう)。家康は、名越善正(なこしぜんしょう)という具合である。彼らは、京都三条釜座を拠点にした京釜師である。
三条釜座は、平安時代から鋳物の生産地として知られたが、天文12年(1543)には8人の鋳物師の存在が確認される。茶の湯の流行と共にその数を増やし、寛永2年(1625年)には、88人もの鋳物師が記録されている。京都では三条釜座以外で鋳物を鋳造することは許されず、材料の購入・販売・その他の既得権を有し、独自の自治的な組織に成長し、当時としては全国に類を見ないほど大きな組織となった。
今日、京都・三条釜座(かまんざ)に「大西清右衛門美術館」という釜の美術館ができている。三条釜座の伝統を受け継ぎ、その16代目の大西清右衛門氏が開設してものである。大西家は現在では中世釜座の面影を残すただ1軒の家となり、千家家元宗匠に出入りを許された千家十職の一つとして伝統の「わび茶」釜を製作している。美術館では、16代にわたって選ばれてきた釜をはじめ、古文書、下絵、木型など1000点の所蔵品が展示・公開されている。
「大西清右衛門美術館」のHP
http://www.seiwemon-museum.com/static.html

丸釜(伝・辻与次郎作) 桃山時代 (MIHO MUSEUM 蔵)
『辻与次郎作と伝えられる丸釜である。辻与次郎は近江国高野庄辻村(現在の滋賀県栗太郡)の出身で,西村道仁の弟子といわれ,桃山時代に京三条釜座に住み,天下一を号した。弟子の弥四郎,藤左衛門とともに利休好みの阿弥陀堂釜・雲竜釜・四方釜を作ったとされる。辻与次郎は当時の大鋳物師の一人であり,なかなか見事な腕であったようである。しかし,16世紀後半から17世紀前半にかけての釜師には不明な点が多く,辻与次郎もその一人である。在銘の釜がないこと,共箱も発見されていないことなどから与次郎作と確証のある釜は現在のところないといわれているが,その作と極められたものは少なくない。与次郎は焼抜きの技法を創始したとされ,羽落ちの釜をその特色とする。この釜は現在でいうところの丸釜の形態とは異なっており,真形の羽落ち釜という程度の軽い意味合いのようである。』がその解説である。

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