八幡町は、三方を深い山に囲まれ、吉田川と小駄良川が町の中心で合流する。町の中を流れる清流と豊かな湧水に恵まれる。町のいたるところで水の流れる音が聞こえる。古くから用水路が整備され、人々の生活と共に時を重ねてきた町並みは、まさに水の町と呼ぶのにふさわしい情景である。
この水の町を象徴するのが、「宗祇水」である。その名前の由来は、前稿で記した東常縁と宗祇にまつわる故事に由来する。
文明三年(1471年)宗祇は、古今集の奥義を伝授してもらうために、この地を訪れ、湧水のほとりに草庵を結んだ。古今伝授を受け、帰路につく宗祇を送った常縁が、泉のほとりで、
「もみぢ葉の 流るる竜田 白雲の 花のみよし野 おもいわするな」
と餞別の歌を贈り、宗祇は返歌として、
「三年ごし 心をつくす 思い川 春たつさわに わきいづるかな」
と詠んだと伝わる。このことから江戸時代に遠藤常友によって整備された時には、「白雲水」と命名されたという。
大正八年に“宗祇倶楽部”が結成され、後に“宗祇水奉賛会”が引き継ぎ、水の町のシンボルとして、守り続け今日にいたっている。昭和60年、環境庁名水百選選考の時には、水もさることながら、歴史や水と共存する町の素晴らしさが考慮され、一番最初に選ばれたという。
宗祇は、応永28年(1421)に紀伊(近江という説ある)で生まれ、文亀2年(1502)箱根湯本で亡くなっている。応仁の乱がはじまる前年(1466年)、西行の生き方を慕って旅に出る。最後に旅に出たときには80歳になっていて、越後で病に倒れる。駿河の医者にかかるため高弟の宗硯、宗長に伴われ、信濃から江戸、鎌倉を経て箱根湯本の宿に着く。そして駿河まで辿り着くことなくそこで死を迎える。死の直前に
「眺むる月にたちぞ浮かるる」
と詠み、「我は付けがたし。皆みな付けはべれ」と言ったという。自分にはもう上の句をつける力がないから、みんなでつけてくれ。そう言って息をひきとった、と宗長が「宗祇臨終記」の中に書いている。
宗祇は、西行、芭蕉とともに漂泊の詩人と呼ばれる。西行と芭蕉の辞世の句は
「願はくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ」西行
「旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る」芭蕉
である。この三詩人を旅に駆り立てたものは一体何であったのであろうか。
郡上八幡を散策していると、いくつかの「水舟」を見ることができる。「水舟」は上段は飲み水、中段は野菜を洗う、下段は鍋や釜を洗い、今も町の人々が毎日の生活に使っている。
また、清流吉田川でとれた新鮮な鮎は日本一といわれる。清らかな水が、良質の苔を育て、その苔を鮎がはむ。あのぷーんと西瓜のにおいのする鮎は、まさに香り高い香魚である。私もかっては、春先のアマゴ釣り、初夏から盛夏にかけての鮎釣りと何度も吉田川を訪れた。釣れなくても満足の一日を過ごしたものである。
「やなか水のこみち」には、8万個の磨かれた玉石が敷き込まれ、情緒豊かな水辺の小道となっている。水の流れに変化をつける切り玉石や水飲み場、水の湧き出る石など通る人の目を楽しませる工夫が凝らされている。
この小道に沿って「やなか三館」と呼ばれている「奥美濃おもだか家民芸館」「斎藤美術館」「遊童館」の3施設が作られている。

宗祇の肖像と賛。賛は
世にふるはさらに時雨のやとりかな
うつしをくはわか影なから世のうさも
しらぬ翁そうらやまれぬる
(「古今伝授の里」蔵)

宗祇水

水舟

やなか水のこみち

清流吉田川

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