2009/7/30

京都観光:B【世界遺産】光り輝く金閣寺  ◎京都「柊家旅館」と奈良「奈良ホテル」の旅 2009.07

@三十三間堂、A東寺 に続いて、言わずと知れた金閣寺へ。
京都の北側にあるので、バスで移動に1時間近くかかった。
ここに来るまでにもう既に疲れていたのだが、
不思議と光り輝く金閣寺を目にしたら疲れがすっ飛んだよ!

光り輝くといっても派手さはなく、なんともやわらかく美しい。

金閣寺(北山鹿苑寺) http://www.shokoku-ji.or.jp/kinkakuji/

住所:京都府京都市北区金閣寺町1 地図はこちら
拝観時間:9:00〜17:00
拝観料:大人400円、小・中学生300円
市バス 金閣寺前 徒歩約1分
市バス 金閣寺道 徒歩約5分

金閣寺とは:byウィキペディア
正式には鹿苑寺(ろくおんじ)。通称金閣寺(きんかくじ)、山号は北山(ほくざん)。
鎌倉時代に藤原一族の藤原公経(西園寺公経)がこの地に西園寺を建立。
鎌倉幕府滅亡後、荒れ果てた西園寺を足利義満が譲り受け、「北山殿(北山第)」と呼ばれる大規模な邸宅を造営。邸宅とはいいながら御所に匹敵する大規模なもので義満はここで政治の実権を握った。
足利義満の死後、遺言により北山山荘は舎利殿(金閣)を残して解体され禅寺となった。
禅寺の名前は義満の法名鹿苑院殿から二次をとって鹿苑寺と名付けられた。
1994年(平成6年)に古都京都の文化財として世界遺産に登録された。
中心となる建築物である舎利殿を「金閣」、寺院全体を「金閣寺」と通称する。

内部非公開の金閣とは:byウィキペディア 
通称「金閣寺」の由来となった金閣は、漆地に金箔を押した三層の建物で正式には舎利殿(お釈迦様の骨が祀られている)と呼ぶ(金箔を貼るのは二・三層のみ。ただし最上層のみとする異説もある)。
初層・二層・三層のそれぞれに異なる様式を採用した特異な建築である。
初層は寝殿造風で「法水院」(ほっすいいん)と称し、中央に宝冠釈迦如来像、
向かって左に法体の足利義満像を安置する(安置仏像を「阿弥陀如来」とする資料もある)。
二層は住宅風(武家造)の「潮音洞」で、岩屋観音像と四天王像を安置する。
三層は禅宗様の仏殿風で仏舎利を安置し「究竟頂」(くっきょうちょう)と称する。
屋根はこけら葺きで上には金箔張りの鳳凰が飾られている。
また、一層目には池に浮かべた船が着けるようになっている。

鹿苑寺金閣は第二次大戦前から(旧)国宝に指定されていたが、
1950年(昭和25年)、学僧(当時21歳)の放火により炎上(金閣寺放火事件)。
学僧は寺の裏山で自殺を図った。彼の母親は事情聴取のために京都に呼ばれ、
その帰りに保津峡で投身自殺。建物は全焼し、国宝の足利義満像も焼失した。
なお、屋上にあった鳳凰は火災以前に取り外されていたため焼失をまぬがれ現存する。
この事件は三島由紀夫の小説『金閣寺』、水上勉の小説『五番町夕霧楼』・『金閣炎上』の題材にもなっている。
現存する金閣は、1955年(昭和30年)に旧建物の資料を基に再建されたものである。(焼失以後、国宝指定されていない)
昭和61〜62年の大改修の際には総工費約7億4000万円が投じられ、
以前の5倍の金箔で覆われた。その純金の総量は約20s
*昭和の大改修の金箔作業についてご興味がある方はこちらへ↓ 
  担当した表具屋さんの記録です。非公開部分(金閣内部)の写真もあります。
  浩悦庵 金閣寺昭和大修復 http://www.koetsuan.jp/kinkaku/index.html
金箔は一部が平成14〜15年に貼り替えられ、更に平成15年には屋根の葺き替えが行われた。

8代将軍足利義政は祖父の義満が建てた舎利殿にならい、造営中の東山山荘に観音殿(近世以降銀閣と通称される)を建てた。

銀閣(慈照寺観音殿)、飛雲閣(西本願寺)と併せて『京の三閣』と呼ばれる。

 金閣寺の拝観券 参拝志納料という 
お札になっている 不要な方は途中、ポストのようなもので回収しています
横8.5p、縦25.4p。これは捨てられないね〜
銀閣寺も同じように拝観券がお札になっていますが、これよりちょっと小ぶりです

 金閣(舎利殿)



鏡湖池に映る「逆さ金閣」はちょっと無理があるか・・・
池の中に葦原島、鶴島、亀島など大小の島があり、
室町時代には足利義満に取り入ろうとした諸大名が競って奇岩名石を奉納した。
確か島の配置は日本列島を意味しているとNHKか何かで見たような。。。
庭園は室町時代の代表的な池泉回遊式庭園で国の特別史跡、特別名勝にも指定されている。

 金閣寺舎利殿裏側
黄金の鳳凰がよくわかるね

屋根は椹(サワラ)の薄い板を何枚も重ねた柿葺。見本が置いてありました。

 陸舟の松
鏡湖池の東側、方丈の北側に建てられている書院の庭にある。
京都三松の一つに数えられている松の木で、船の形をしている
義満の盆栽から移植され、帆掛け船の形に仕立てられたものとされており、
舳先は西の方角を向いている。これは、この船に乗って西方浄土に向かうという
発想からこの形に仕立てられたものだそうな。すごいね〜

全く記憶になかったけれど、境内にはほかに見るものがたくさんあります。
龍門滝と義満縁の泉、安民沢、夕佳亭(茶室)、「手水鉢」と「石灯篭」、不動堂など。
でも金閣にばかり目を奪われて、他の写真を撮るのを忘れてしまった・・・

ここでちょっとお買物ポイント
後で知ったが、金閣寺の境内でしか買えないキティちゃん金閣寺お守りがあるそうな
むむ。ちょっと欲しい。でも実は神社キティお守りって全国あちこちにあるのよね。
また、金閣寺の入口にはあぶらとり紙の老舗「京都よーじや金閣寺店」があります。


次は銀閣寺・・・の前に 金閣寺のすぐ近くでランチ。
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2009/7/29


京都観光@三十三間堂 に続いて、新幹線から見える五重塔のある東寺へ。

東寺(教王護国寺) http://www.toji.or.jp/

住所:京都府京都市南区九条町1 地図はこちら
拝観時間:春(3月20日〜)8:30〜17:30
     秋(9月20日〜)8:30〜16:30
拝観料:大人500円 高校生400円 中学生300円
市バス「東寺東門前」下車すぐ
近鉄京都線「東寺駅」下車徒歩10分
JR京都駅下車 徒歩約15分

東寺とは:byウィキペディア
東寺真言宗総本山の寺院。山号は八幡山。本尊は薬師如来。
この寺には「東寺」および「教王護国寺」という2つの名称がある。

8世紀末、平安京の正門にあたる羅城門の東西に「東寺」と「西寺」(さいじ)という2つの寺院の建立が計画された。これら2つの寺院は、それぞれ平安京の左京と右京を守る王城鎮護の寺、さらには東国と西国とを守る国家鎮護の寺という意味合いを持った官立寺院であった。

南北朝時代に成立した、東寺の記録書『東宝記』によれば、東寺は平安京遷都後まもない延暦15年(796年)、藤原伊勢人という人物が造寺長官(建設工事責任者)となって建立したという。藤原伊勢人という人物については、公式の史書や系譜にはその名が見えないことから、実在を疑問視する向きもあるが、東寺では古くからこの796年を創建の年としている。
それから20数年後の弘仁14年(823年)、真言宗の宗祖である弘法大師空海は、嵯峨天皇から東寺を賜った。この時から東寺は国家鎮護の寺院であるとともに、真言密教の根本道場となった。

東寺は平安後期には一時期衰退するが、鎌倉時代からは弘法大師信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として、皇族から庶民まで広く信仰を集めるようになる。
中でも空海に深く帰依したのは後白河法皇の皇女である宣陽門院(1181年 - 1252年)であった。宣陽門院は霊夢のお告げに従い、東寺に莫大な荘園を寄進した。
また、「生身供」(しょうじんく、空海が今も生きているがごとく、毎朝食事を捧げる儀式)や「御影供」(みえく、毎月21日の空海の命日に供養を行う)などの儀式を創始したのも宣陽門院であった。空海(弘法大師)が今も生きているがごとく朝食を捧げる「生身供」の儀式は、21世紀の今日も毎日早朝6時から東寺の西院御影堂で行われており、善男善女が参列している。また、毎月21日の御影供の日には東寺境内に骨董市が立ち「弘法市」「弘法さん」として親しまれている。
平成6年(1994年)12月には「古都京都の文化財」の一部として世界遺産に登録された。

ちなみに西寺は早い時期に衰退し、現在は京都市南区唐橋の近隣公園・唐橋西寺公園内に史跡西寺跡の碑があり、付近に西寺の寺名のみを継いだ小寺院が残るのみである。

 南大門
明治28年(1895年)、三十三間堂の西門を移築したもの。

 骨董市やってました
後ろに見えているのが金堂

 重文 講堂
空海が東寺を建てるにあたって最も力を注いだのがこの講堂。
堂内の仏像21体のうち、15体は創建当時のもの。
東寺が空海に下賜された弘仁14年(823年)にはまだ建立されておらず、
天長2年(825年)空海により着工、承和2年(835年)頃完成した。
現在の建物は、室町時代の延徳3年(1491年)の再建。
講堂には大日如来を中心とした密教尊を安置する

 国宝 金堂
東寺の本堂で延暦15年(796年)に創建されたと伝えられる。
文明18年(1486年)に焼失し、豊臣秀頼が慶長8年(1603年)に再建した。
高さ約3mの「薬師三尊像」が本尊として祀られている。

 国宝 五重塔
新幹線の中から見えるやつですね。
高さ54.8メートルで木造塔としては日本一の高さを誇る。
天長3年(826年)、弘法大師が創建時に始まるが、たびたび火災に遭い、失すること4回。
現在の塔は5代目で、寛永21年(1644年)に徳川家光の再建。
空海が在命中は建設中で、空海が亡くなってから約50年後に完成した。
特別公開は毎年正月1日〜5日。

最初、東大門から入ろうとしたら開いてなかった。
東大門は1336年、新田義貞により攻められた足利尊氏がこの門を閉め難を逃れたことにより、不開門(あかずのもん)と呼ばれるようになったそうな。
そこで南大門から入ったが、ぐるっと周って北の方にある食堂(じきどう)の近くに
拝観受付がある。駐車場からの方が近かったよ。
ちょうど骨董市をやっていました。

公式ホームページではまず国宝の御影堂へと書いてあったが、立ち寄らなかった。
御影堂はかつて空海が住房としていた、境内西北部の「西院」と呼ばれる一画に建つ住宅風の仏堂である。現在の建物は明徳元年(1390年)のもので、弘法大師像を安置するために北側に前堂、その西側に中門が増築された。後堂(南側)には空海の念持仏とされる不動明王坐像(国宝、9世紀)を安置する。厳重な秘仏で非公開であるが、日本の不動明王像としては最古の作例の1つである。北側の前堂には弘法大師坐像(国宝)を安置する。
また像の前では、毎朝6時に「お大師様」に朝食を捧げる「生身供」(しょうじんく)が執り行われ、多くの参拝者が集まる。

次は金閣寺。
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タグ: 京都 東寺 世界遺産

2009/7/28

京都観光:@とにかく圧巻「三十三間堂」  ◎京都「柊家旅館」と奈良「奈良ホテル」の旅 2009.07

奈良ホテルを早めにチェックアウトして、バスで奈良駅へ。
そして京都駅へ。
奈良観光はレンタカーだったけど、
京都観光は1日観光券(1200円)を使って、バス・地下鉄で周ります。

左が1日券、右が2日券

京都観光一日乗車券 http://www.city.kyoto.lg.jp/kotsu/page/0000028378.html

まずは三十三間堂へ。ここの何がすごいって観音様がいーっぱい!

三十三間堂 http://sanjusangendo.jp/

住所:京都府京都市東山区三十三間堂廻町657 地図はこちら
開門時間: 8:00〜17:00(11/16〜3月は9:00〜16:00)受付終了30分前 年中無休
拝観料:大人600円 中高生400円
JR京都駅→市バス206系統で5分「博物館三十三間堂前」下車徒歩すぐ
京阪電気鉄道 七条駅 徒歩5分
駐車場あり

三十三間堂とは:byウィキペディア
建物の正式名称は蓮華王院本堂(れんげおういんほんどう)。
同じ京都市東山区にある天台宗妙法院の境外仏堂であり、同院が所有・管理している。
元は後白河上皇が自身の離宮内に創建した仏堂で、本尊は千手観音である。

「三十三間堂」の名称は、間面記法による表記「三十三間四面」(構造)に由来する。
これは桁行三十三間の周囲四面に一間の庇を巡らせたという意味である。
つまり柱間が33あるのは本堂の内陣(母屋)で、建物外部から見る柱間は35ある。
「33」は観音に縁のある数字で、『法華経』等に観音菩薩が33種の姿に変じて衆生を救うと説かれることによる。
ここで言う「間」(けん)は長さの単位ではなく、社寺建築の柱間の数を表す建築用語である。

江戸時代には各藩の弓術家により本堂西軒下(長さ約121m)で矢を射る「通し矢」の舞台となった。その伝統に因み、現在は「楊枝のお加持」大法要と同日(1月中旬)に、本堂西側の射程60mの特設射場で矢を射る「三十三間堂大的全国大会」が行われる。
弓道をたしなむ女性新成人参加者が振袖袴姿で行射する場面は、しばしばニュース番組等で取り上げられる。一般的には「通し矢」と呼ばれているが、60mは弓道競技の「遠的」の射程であり、かつての通し矢とは似て非なるものである

 国宝 本堂
鎌倉時代再建 入母屋造 本瓦葺 揺れ動くことで免震
 本堂
地上16m、奥行22m、南北120mと長大 この中にぎっしり観音様


 お庭

建物の中の仏像は写真×なので、京都市観光文化情報システムの写真を使わせてもらいます。

本当に圧巻です。

 重文 千体千手観音立像
10段の階段上の壇上に等身大の観音様(重文の千体千手観音立像)が1000体!
お顔が皆違います。そのうち半分は作者が残されているそうですよ。

 国宝の千手観音坐像
そのお堂の中央に国宝の千手観音坐像
3mもあります。仏師湛慶の作。

その他、観音二十八部衆と言われる国宝の風神・雷神を含めた30体が
1000体の千体千手観音立像の前に並んでいます。

どれも圧倒的な力強さを感じ、今回の京都観光の中で一番印象に残っています。
京都といえば金閣寺・銀閣寺ですが、また違うすごさを体感できますので、
特に修学旅行以来という方には是非立ち寄ってほしいです。

次は東寺。
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2009/7/27

クラシックホテル 奈良ホテル 食事編  ◎京都「柊家旅館」と奈良「奈良ホテル」の旅 2009.07

クラシックホテルの奈良ホテル。
建物編お部屋編に続いて 夕食と朝食をご紹介。

今回は朝食付きのプランで、夕食はついていなかったが、
結局、夕食も朝食もホテルのメインダイニングルーム「三笠」(本館1階)でいただきました。

ほかにレストランは日本料理の「花菊」、ティーラウンジ、バーがあり、どれも本館内。


メインダイニングルーム「三笠」 天井高いね!

夕食:夜のコースは7000円〜。
いつも食べきれない量なので、今回はアラカルトで注文。

 窓側のお席で

 前菜盛り合わせ

 エスカルゴ

 奈良ホテル風ビーフシチュー

 

 ケーキ

 
シャトー・バーン・オー・ブリオン2003 確か18000円くらい
シャトー・オー・ブリオンのセカンド。
こういう時にケチってはいけないと言い聞かせて注文。うま〜これにして良かった〜。
  クリック!→  9,980円 (税込・送料別)


朝食
奈良名物の茶粥定食・洋食定食・和食定食から選べた
(ちなみに朝食が含まれていないプランですと別途2,541円です)


私は当然茶粥定食を選択

だんなは洋食定食を選択

夜はオーソドックスなフランス料理。とても美味しくいただきました。
ワインの種類も豊富にありました。ソムリエさんと好みを相談して決めました。

朝は名物の茶粥。
トッピングの昆布やら梅干やら別に持ってきてくれてたのに気付かず。
お好みでこちらをどうぞとひとこと言ってくれてたらとちょっと思ったけど、
気付かぬ私が悪いか。

ほかのクラシックホテル同様、メインダイニングは
伝統と落ち着きがいい気分にさせてくれるね。

2009.8/12まで 創業100周年謝恩ランチ<第二弾> 2900円やってます。
お近くへいらしたら是非ティーラウンジでお茶だけでもしていきましょう。


メインダイニングルーム 三笠 (フレンチ / 近鉄奈良)


住所: 奈良県奈良市高畑町1096 奈良ホテル本館1F 地図はこちら
TEL: 0742-26-3300
営業時間: 7:00〜9:30 11:30〜15:00 17:30〜21:00

次は京都観光 三十三間堂から。
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2009/7/26

クラシックホテル 奈良ホテル お部屋編  ◎京都「柊家旅館」と奈良「奈良ホテル」の旅 2009.07

クラシックホテルの奈良ホテル。
建物編 に続いてお部屋を紹介。

泊まったのは当然 本館。217号室。

 扉を開けると
ドアノブが結構下の方にある
 スタンダードツイン
真ん中辺にあるのがマントルピース 今は使われていない
 ユニットバス
バスが一段深くなっているので要注意
 スチーム

広くはないが、とても落ち着くお部屋です。

続いてお食事編。
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2009/7/24

クラシックホテル 奈良ホテル 建物編  ◎京都「柊家旅館」と奈良「奈良ホテル」の旅 2009.07

奈良に泊まるなら奈良ホテルと決めていた。
クラシックホテルが大好きだから。

実際、期待を裏切らない素敵なホテルでしたよ!


奈良ホテル http://www.narahotel.co.jp/



住所:奈良県奈良市高畑町1096 地図はこちら
TEL:0742-26-3300
チェックイン 15:00  チェックアウト 11:00
奈良駅から徒歩25分または車で8分
近鉄奈良駅から徒歩15分または車で5分
駐車場/乗用車150台(無料)

  クリック!→  ←楽天トラベル 口コミ☆4.5!

奈良ホテルとは:byウィキペディア
今年2009年10月で創業100年を迎える。
荒池の畔の小高い丘にある大乗院跡地に建っており、興福寺・奈良公園など観光地にも近い。
本館の建築は東京駅や日本銀行で知られる辰野金吾・片岡安による設計で
桃山御殿檜造りの木造2階建て瓦葺き。現在も創業当時のものである。
かつては国営(鉄道省直営)で関西における迎賓館的役割をになっていた。
今日でも著名人が多く宿泊し、皇族の奈良宿泊の際にはこのホテルが利用されることが専らである。廊下には上村松園、前田青邨らの絵画が飾られている。

当初は暖炉を暖房に用い、屋根に多数の煙突が設けられていた。
大正時代にスチームヒーターを導入した際にこれらの暖炉は廃止され、
煙突は撤去されたもののロビーをはじめ各所に設けられていたマントルピース
現在に至るまで存続している。

1970年に開催された日本万国博覧会に備えて収容力の拡大を図るべく、
本館食堂の南側に高層ビル形態の新館建設を計画し基礎工事まで済ませたが
景観保護にかかる諸条例の規制区域であったためこれは中止となり、
その基礎を生かして近代的な外観の半地下式グリルが新設され、
これに伴い不要となったラウンジが撤去されるに留まった。

この際、当初計画に対する収容力の不足を補うため、
同時期に建設が計画された近鉄奈良駅ビルの上層階を別館として1970年に営業開始したが、
これは1984年のわかくさ国体、および1988年の「なら・シルクロード博覧会」の開催を控え、
1984年に本館の建つ高台の南側傾斜面を削り込んで埋め込む形で鉄筋コンクリート造りの新館を国鉄の設計による吉野造りで建設したことでその必要性が大幅に低下し、「なら・シルクロード博覧会」閉幕後もしばらくは営業を続けたが、結局1991年にこの別館は閉鎖されている。

 道路からの入口
ここから玄関までのぼり坂
 本館(宿泊部分) 

 ロビー

 ロビーの暖炉
何故か鳥居

 桜の間

 2階踊り場
シャンデリアは当時のもの
 本館客室前廊下

泊まるなら本館(木造)でしょ。
というわけで朝食付きプランで本館スタンダードツインに宿泊。
本館は木造建築のため全室禁煙だ。

外から見ていて新館がどこにあるのかわからなかった
ホテルの本館の中を歩いていてもわからない。
家に帰ってネットで何かの写真を見てビックリ!
正面玄関に向かって左側の建物が新館で、
お部屋は地下にあるのだ。

上のウィキペディアにある通り、崖になっているので、ちゃんと窓がある。
なので本館の1階が新館の5階に当る。面白いね!


それにしても面白いのはロビーの暖炉(マントルピース)に鳥居。
泊まったお部屋にもマントルピースが残されていた。

次は泊まったお部屋について。


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2009/7/23

奈良観光:F【世界遺産】奈良の大仏「東大寺」  ◎京都「柊家旅館」と奈良「奈良ホテル」の旅 2009.07

7番目に訪れたのは東大寺。「奈良の大仏」で有名ですね。

境内はとても広く見所満載ですが、歴史的背景もなかなか興味深いものがあります。
ここに全部書くとすっごく長くなるのでこれまたウィキペディアを参考にしてください。
こちら→ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%AF%BA

東大寺 http://www.todaiji.or.jp/

住所:奈良県奈良市雑司町406-1 地図はこちら
JR奈良駅、近鉄奈良駅(この2つの駅は違う場所にある)より
奈良交通市内循環バス外回り系統で「大仏殿春日大社前」下車徒歩5分


東大寺とは:byウィキペディア
「金光明四天王護国之寺」(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)ともいい、
奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。
「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊とし、
開山(初代別当)は良弁僧正(ろうべんそうじょう)である。

東大寺のはじまりは、神亀5年(728)、聖武天皇の皇太子、基(もとい)王の菩提を追修するために建てられた金鐘山寺(きんしょうせんじ)。
その後、金鐘山寺は大和国の国分寺に充てられ、金光明寺とも呼ばれるようになった。

奈良時代には中心堂宇の大仏殿(金堂)のほか、東西2つの七重塔(推定高さ約100m)を含む大伽藍が整備されたが、中世以降、2度の兵火で多くの建物を焼失した。
現存する大仏は、台座などの一部に当初の部分を残すのみであり、現存する大仏殿は江戸時代、18世紀初頭の再建で、創建当時の堂に比べ、間口が3分の2に縮小されている。
「大仏さん」の寺として、古代から現代に至るまで広い信仰を集め、日本の文化に多大な影響を与えてきた寺院であり、聖武天皇が当時の日本の60余か国に建立させた国分寺の本山にあたる「総国分寺」と位置づけられた。
1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。

歴史的背景
聖武天皇が位についていた8世紀前半、すなわち天平時代の日本は
天然痘・飢饉・天平6年(734年)の大地震、乱など決して安定した状況にはなかった。
そこで聖武天皇は天平13年(741年)の詔で、国ごとに国分寺と国分尼寺を造ることを命じ、
東大寺は大和国の国分寺であるとともに、日本の総国分寺と位置づけた。
この国分寺造立の思想的背景には「金光明最勝王経」の信仰がある
日本に仏教が伝来したのは6世紀前半。聖武天皇の時代には仏教伝来からすでに2世紀が経過、平城京には元興寺、薬師寺、興福寺などの大寺が建立されており、歴代の天皇は仏教を篤く信仰していた。
こうした政教一致ともいうべき国家体制のなかで重視されたのが、国を護る経典である「金光明最勝王経」(10巻、唐僧の義浄訳)であった。
同経の説くところによれば、この経を信じる国王のもとには、仏教の護法善神である四天王が現われ、国を護ることになっている。
聖武天皇は、日本のすみずみにまで国分寺を建て、釈迦像を安置し、金光明最勝王経を安置することによって、こうした社会不安を取り除き、国家の安定を図ろうとする意図があったものと思われる。

だが、このような大規模な建設工事は国費を浪費させ、日本の財政事情を悪化させるという、聖武天皇の思惑とは程遠い事実を突き付けた。実際に、貴族や寺院が富み栄える一方、農民層の負担が激増し、平城京内では浮浪者や餓死者が後を絶たず、租庸調の税制が崩壊寸前になる地方も出るなど、律令政治の大きな矛盾点を浮き彫りにした。

奈良の大仏 盧舎那仏(るしゃなぶつ)
まず東大寺、その後大仏造立である。聖武天皇の発願で天平17年(745年)に制作が開始され、天平勝宝4年(752年)に開眼供養会(かいげんくようえ、魂入れの儀式)が行われた。
大仏は当初、奈良ではなかった。天皇が詔を発した天平15年(743年)の都は恭仁京(くにのみや 京都府相楽郡加茂町)。その北東に位置する紫香楽宮(滋賀県甲賀市信楽町)に造られる計画であった。
しかし、いらした紫香楽宮の周辺で山火事が相次ぐなど不穏な出来事があったために造立計画は中止され、都が平城京へ戻るとともに、現在、東大寺大仏殿がある位置での造立が開始された。

盧舎那仏は、華厳経(西暦400年前後に中央アジアで成立し、中国経由で日本へもたらされた仏教経典)に説かれる仏で、華厳経に言う「蓮華蔵世界」の教主である。
聖武天皇は日本の総国分寺である東大寺に廬舎那仏を安置することによって、日本の国土を華厳経の「蓮華蔵世界」のような理想的世界にしようという意図があったものと思われる。

大仏完成後数十年にして亀裂や傾きが生じ、斉衡2年(855年)の地震では首が落ちるという事故
その後大仏および大仏殿は、源平争乱期と、戦国時代の2回、兵火で焼失している。
2回目の焼失後、大仏殿はとりあえず仮堂で復興したが、それも慶長15年(1610年)に大風で倒壊し、大仏は仏頭が落ち、雨ざらしの無残な首無し状態で数十年が経過した。
その後の大仏の修理は元禄4年(1691年)に完成し、再建大仏殿は公慶上人(1648年-1705年)の尽力や、将軍徳川綱吉や母の桂昌院をはじめ多くの人々による寄進が行われた結果、宝永6年(1709年)に完成した。

現存する大仏は像の高さ約14.7m、基壇の周囲70mで、頭部は江戸時代、体部は大部分が鎌倉時代から室町時代の補修であるが、台座、右の脇腹、両腕から垂れ下がる袖、大腿部などに一部天平時代の部分も残っている。台座の蓮弁(蓮の花弁)に線刻された、華厳経の世界観を表わす画像も、天平時代の造形遺品として貴重である。



奈良といえば鹿だね

 国宝 南大門
平安時代の応和2年(962年)8月に台風で倒壊後、
鎌倉時代の正治元年(1199年)に復興されたもの
門内左右には金剛力士立像(国宝)と石造獅子1対(重文)を安置する。

 中門と大仏殿が見えてきた
手前に見えるのが中門(重文)。
金堂(大仏殿)の手前にある入母屋造の楼門(2階建ての門)。享保元年(1716年)頃の再建

 国宝 金堂(大仏殿)
現存の大仏殿は3代目。正面の幅(東西)57.5m、奥行50.5m、棟までの高さ49.1m。
高さと奥行は創建当時とほぼ同じだが、幅は創建当時(約86m)の約3分の2になっている

 国宝 盧舎那仏(るしゃなぶつ)
 大仏の裏側

 虚空蔵菩薩坐像
 如意輪観音菩薩像
如意輪観音坐像・虚空蔵菩薩坐像(重文)
大仏の左右に脇侍として安置される。これらの像は大仏(銅造)とは異なり木造。
如意輪観音像は元文3年(1738年)頃の完成、
虚空蔵菩薩像は遅れて宝暦2年(1752年)の完成。

 広目天像
四天王のうち西方を守る神。持っているのは筆と経巻。
 多聞天像
広目天と多聞天像は寛政の時代に完成

 頭2つ
堂内に展示された持国天像と増長天像の頭部。
この2体は完成することなく素木(しらき)の頭部だけが残されたそう。

 柱の穴から子供が
金堂(大仏殿)の柱の穴をくぐると、子供の寝小便とか厄除けに効き目があるそうな

 国宝 二月堂
旧暦2月に「お水取り」(修二会)が行われることからこの名がある。
寛文7年(1667年)、お水取りの最中に失火で焼失し、2年後に再建されたのが現在の建物。

 二月堂の上

 二月堂からの眺め

その他、写真はないが、三月堂がある。
東大寺法華堂(三月堂、羂索堂)
  境内の東方、若草山麓にある。東大寺に残る数少ない奈良時代建築の1つであり、
  天平仏の宝庫として知られる。東大寺の前身寺院である金鐘寺(こんしゅじ)の
  羂索堂(けんさくどう)として建てられたもので、記録により天平15年(743年)
  までには完成していたと思われる。
  内部には奈良時代彫刻の優品が多く安置されている。また、鎌倉時代の復興期には、
  重源に重用された慶派の仏師による彫像群が造られ、興福寺のとともに、
  大変に重要視されている。

またしても説明が長くなってしまった。
その後正倉院も見に行ったが、残念ながら見学時間を超えていたので観れなかった。残念。

この中で一番気に入ったのは大仏や大仏殿ではなく、二月堂

これにて奈良観光は終了。もうくたくた。
次はこの日の宿泊先、クラシックホテルの「奈良ホテル」について。

ちなみに 前に奈良へ来た時に泊まった宿はこの東大寺の前にある「観鹿荘」。
というか、ほぼ境内にあるといっていい位置。
東大寺別院を移築した純和風旅館だ。お庭がとてもきれいで観光にはとても便利だった。
夜のライトアップ、早朝の散策がとてもよかったのを覚えている。
観鹿荘 http://www.kankaso.jp/index.shtml
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2009/7/22

奈良観光:E【世界遺産】平城宮跡  ◎京都「柊家旅館」と奈良「奈良ホテル」の旅 2009.07

6番目に訪れたのは平城京の大内裏「平城宮」の跡。
1998年12月、「古都奈良の文化財」として東大寺などと共に世界文化遺産に登録された。

以前(5年位前)に来たときは、復元されたでっかい朱雀門があるだけで
あとはだだっ広い空き地になってたが、今回はさすがに遷都1300年祭に向けて動いてましたよ。
そういえば前回の訪問時、タクシーの運転手さんと話してて、
奈良は掘ったら何か必ず出てくるから、(後々面倒なので)やたらめったらビルを建てたりできないんだって言ってたな〜。

平城京跡 http://narashikanko.jp/j/isan/w_isan08.html

近鉄大和西大寺駅から徒歩20分
「平城宮跡」バス停下車、徒歩20分
またはJR奈良駅・近鉄奈良駅方面から
「二条大路南4丁目」バス停下車、徒歩3分
駐車場は平城宮跡資料館前、朱雀門前、遺構展示館横、東院庭園前の4ヶ所あり

平城京とは
和銅3年(710)、奈良盆地の北端に造られた平城京が新しい都と定められた。
元明天皇が律令制に基づいた政治を行う中心地として飛鳥に近い藤原京から都を移したのだ。
その後、聖武天皇は740年から745年まで、都を転々と移すが、
745年には再び平城京を都とした。
そして長岡京に都が移る784年までのあいだ、奈良の地が都として栄えたのである。
この時期を奈良時代という。

平城宮とは
平城宮・朱雀大路の北端には朱雀門がそびえていた。朱雀門をくぐると天皇の住居であり政治や国家的儀式を行う平城宮である。平城宮の周囲には大垣がめぐり、朱雀門をはじめ12の門があった。
広さは約120ha
平城宮の内部にはいくつかの区画があり、政治・儀式の場である大極殿・朝堂院、天皇の住まいである内裏、役所の日常的業務を行う曹司、宴会を行う庭園など。
その中でも政治・儀式の場は、都が一時離れた時期を境にして、奈良時代の前半と後半で大きな変化があった。奈良時代前半に、朱雀門の真北にあった大極殿(通称、第一次大極殿)が、奈良時代後半になると東側の区画に建てられたのだ(通称、第二次大極殿)。
これに対して、内裏は、奈良時代を通じて同じ場所にあった。

794年の平安京遷都後は放置され、しだいに農地となっていった。 しかし南都と呼ばれ、あくまでも本来の都は奈良と云う認識が大宮人の間にはあった。
1852年(文政8年)、奉行所の役人であった北浦定政が『平城宮大内裏跡坪割之図』を著し、平城京の跡地を推定した。 明治時代に建築史家、関野貞が田んぼの中にある小高い芝地が大極殿(第二次)の基壇であることを発見、1907年『平城京及大内裏考』を奈良新聞に発表した。この研究記事がきっかけとなり、個人的に資財を投じた棚田嘉十郎・溝辺文四郎らが中心となり平城宮跡の保存の運動が起こった。1921年には、平城宮跡の中心部分が民間の寄金によって買い取られ、国に寄付された。その後、平城宮址(へいじょうぐうし)は1922年に国の史跡に指定された(後に特別史跡)。1960年代に私鉄電車の検車庫問題と国道建設問題に対する二度の国民的保存運動がおこった。現在は、ほぼ本来の平城宮跡地が指定され保存されている。
なお、唐招提寺の講堂(国宝)は平城宮朝堂院にあった建物の一つである東朝集殿を移築したものである。切妻屋根を入母屋にしたり、鎌倉時代の様式で改造されている箇所もあるが、平城宮唯一の建築遺構として貴重である。

幅約74mの朱雀大路
朱雀門まで4km続いていた
この朱雀大路をはさんで 西側を右京、東側を左京という
 朱雀門(1998年竣工)
朱雀門は奈良時代前期の建築であり、その年代が法隆寺よりくだることから、
様式は同年代の薬師寺東塔を参考にされた
門の下から遠くを見ると
電車(近鉄)走ってる(左端)し、なにやら建ててる
それは大極殿(第一次)
復原(↓に注あり) 2010年の完成予定

その他、南東に東院庭園が復元され、平城宮跡資料館や宮内省跡、遺構展示館がある。

ちなみに発掘調査はまだ全体の30%しか終わってないそうな。あと100年はかかるらしい。

そういえばマスコットせんとくんが有名ですが(まんとくんなーむくんもいるね)、
この平城遷都1300年記念事業、資金が集まらなくて予定通り行ってないようです。
(そうだろうなあ・・)
どんなことになってるかというと・・長くなるので興味のある方はウィキペディアを読んでね
こちら→ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%9F%8E%E9%81%B7%E9%83%BD1300%E5%B9%B4%E8%A8%98%E5%BF%B5%E4%BA%8B%E6%A5%AD

次は東大寺。
*注:復元と復原 同じことばなのにちょっと意味が違う。勉強になったわ〜。
    「復元」…失われたものを旧に復すること。
    「復原」…はじめの姿が改造、変化してしまった現状を元の姿に戻すこと。
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2009/7/21


@法隆寺、A藤ノ木古墳、B薬師寺、C唐招提寺に続いて、垂仁(すいにん)天皇陵へ。

垂任天皇陵 


近鉄橿原線の尼ヶ辻駅から徒歩5分


垂仁天皇とは:byウィキペディア
垂仁天皇(すいにんてんのう、崇神天皇29年1月1日(紀元前69年1月26日)誕生〜垂仁天皇99年7月14日(紀元後70年8月8日)は『古事記』・『日本書紀』に伝えられる第11代の天皇(在位:垂仁天皇元年1月2日(紀元前29年)〜垂仁天皇99年7月14日(紀元後70年)。
崇神天皇の第三皇子。母は御間城姫命(みまきひめのみこと)。
活目入彦五十狭茅尊(いくめいりびこいさちのみこと)・活目尊。
『古事記』に伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと)、『常陸国風土記』に伊久米天皇、『令集解』所引「古記」に生目天皇、『上宮記』逸文に伊久牟尼利比古(いくむにりひこ)大王と見える。
『日本書紀』、『古事記』に見える事績は総じて起源譚の性格が強く、その史実性については多分に疑問である。

御陵:byウィキペディア
垂仁天皇陵『延喜式』諸陵寮に拠れば、菅原伏見東陵(すがわらのふしみのひがしのみささぎ)に葬られた。『古事記』に「御陵は菅原の御立野(みたちの)の中にあり」、『日本書紀』に「菅原伏見陵(すがわらのふしみのみささぎ)」、『続日本紀』には「櫛見山陵」として見える。現在、同陵は奈良県奈良市尼辻西町の宝来山古墳(前方後円墳、全長227m)に比定される。

現在の宝来山古墳の濠の中、南東に田道間守の墓とされる小島がある。
この位置は、かっての濠の堤上に相当し、濠を貯水のため拡張して、島状になったと推測される。しかし、戸田忠至等による文久の修陵図では、この墓らしきものは描かれていない。


ややこしいなあ。
今のところ(なんたって宮内庁だからね)
垂任天皇陵は菅原伏見東陵のことで、宝来山古墳ともいうってこと?
 

全長227mの前方後円墳 空から見ないとわかんないね

次は平城宮址。
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タグ: 奈良 天皇陵 宮内庁

2009/7/20

奈良観光:C【世界遺産】唐招提寺  ◎京都「柊家旅館」と奈良「奈良ホテル」の旅 2009.07

@法隆寺、A藤ノ木古墳、B薬師寺に続いて、唐招提寺へ。
薬師寺から歩いて数分のところにある。
その途中に良さそうなそば屋(↓)があった。
確か前に行った時(5年くらい前かな)にはなかったと思うが。

 
入ってないので参考そば切りよしむら http://www.e-shops.jp/local/lsh/an/29/11243673.html

さて唐招提寺。

唐招提寺 http://www.toshodaiji.jp/

住所:奈良県奈良市五条町13-46 地図はこちら
TEL:0742-33-7900
拝観時間:8:30〜17:00(受付は16:30まで)
拝観料:大人600円 高校・中学生400円 小学生200円
・京都駅より近鉄京都線(急行)にて 「大和西大寺」駅(39分)下車乗換え。
 近鉄橿原線(普通)にて「西ノ京」駅(4分)下車、徒歩8分 
・JR 奈良駅から六条山行バス17分 唐招提寺下車すぐ

由来:唐招提寺は、中国の高僧 鑑真和上(688~763)により創建された律宗の総本山。
鑑真和上は聖武天皇の招聘に応えて来日を決意され、五度の渡海の失敗と度重なる艱難辛苦のすえ両目の光を失いながらも753年、渡航を志してゆうに12年の歳月を経て、来日を果たされた。この偉業は日本でも中国でも広く知られている。
唐招提寺が創建されたのは和上来日より五年後の759年、律宗の研究道場として故新田部親王の旧邸を授けられたのが始まり。
1989年に「古都奈良の文化財」として世界遺産に登録。

境内には金堂、講堂、宝蔵、鼓楼(いずれも国宝)が立ち並んでいるが、
金堂は解体修理中。

 国宝 金堂
南大門をくぐって正面に佇む金堂。2000年より10年間の大修理中。
天平宝字3年(759)に創建。奈良時代の金堂建築としては現存唯一のものである。

 国宝 講堂
平城宮の東朝集殿を移築・改造したもので、
天平時代宮廷建築の唯一の遺構として極めて貴重。

次はここから歩いていける垂仁(すいにん)天皇陵。
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