『独立国家のつくりかた』(坂口恭平著、講談社現代新書=2155)
世の中には天才というものが確かにいる。彼らの多くは、世界の見え方が凡人とは異なる。著者もその一人。でなければ、「モバイルハウス」とか「ゼロ円生活」とかの発想や気づきはないはずだ。
彼は、幼少の頃、平凡な団地の社宅に生まれ育ち、その面白味のない風景が嫌だった。だが、あるとき、側溝から続く地下の世界に気づき、海につながる宇宙を冒険した。そこで、今で言う「レイヤー」というものがあることを知った。見方によって世界は変わり、そのこと自体が革命である、と。
彼は「建てない建築家」であり、「路上シンガー」であり――それで一般的な生活ができるレベル――、「著述業者」であり、「落語家」である。そして何より「新政府の総理大臣」なのだ。非常に多面的だが、本質的には革命家だと思う。政治を脱臼し、無化した果ての社会革命家。本当に革命的だから、名付けようがないレベル。
「まえがき」で子供の頃の疑問を書く。小生が特に問題意識として挙げたいものを。「なんでお金がないと生きられない? それは本当か?」「生存権が憲法で保障されているはずだが、路上生活者がなぜ多く、小さな小屋さえ建てられないのはなぜ?」「日本の空き家が増えているのに、どうして家は建てられ続けるのか?」
彼は実践で答えを見つける、否、変えていくであろう。革命家だからだ。
ただ、老エンゲルスが言ったように、旧社会に新社会が胚胎し、それを食い破るには、旧社会のマジョリティーの中で、この革命の方向を是とする動きが出来なければ、貫徹できないとも思う。小生は応援するけどね。それと、彼の発想は、「企業」という枠の中でも求められるのだ。上からの命令に従うのが良い社員ではない。命令(仕事)を作れる社員こそが、大事なのだ。この辺は、A.ネグりたんが詳しいかな。資本主義はヤワじゃねえ。逆にこの天才の発想を包摂する可能性が大きい。ただ、彼の取り組みは「世の中をちったあ面白く、マシにする」と思う。
プロローグでドブ川の冒険について記す。面白くない空間を、広く感じるためにビー玉でゴルフをしたり、ホッピングで冒険の舞台にしたり。そんな日、排水溝を冒険して海に行く途中のドブ川にたどり着く。そこから見た風景は普段と違うものだった。
歩き方を変える。視点を変える。思考を変える。
それだけで世界は一変するのである。自分に無数の「生」の可能性があることを知る。
(p19)
第一章は「そこにはすでに無限のレイヤーがある」と題して。
著者が早稲田の建築学科学生だった頃、面白いホームレスの家を見つける。ブルーシートにソーラーパネルでオール電化。ゼロ円で資材購入。「この家は寝室にすぎない」。本棚は図書館、水道・トイレは公園、食事はスーパーの掃除のついでに確保。
家だけが居住空間ではなく、都市こそが居住空間だった。「レイヤーライフ(層生活)」「ブリコラージュな所有」。同じ浅草の街でも、生きる人によって違った見え方がするのだ。無理にお金儲けに勤しまなくても、都市は生活資材を供給してくれる。土地を囲い込んで私有すると「減る」が、レイヤーで捉え、移動を当然と考えると減ることはない。むしろ増える。さて、私的所有を前提にした国家には、様々な経緯で「誰のものでもない」土地があったりする。銀座にさえ。本来の法律はレイヤーの摺合せのためにある。が、「考えない」=合理的という近代では、法律を前提に暮らすように仕向けられる。疎外だね。さらに、本来、生存権のほうが私的所有権などより強いはずだが、最近のホームレス排除はそれがひっくり返っている。
様々なレイヤーにより高度に分割された都市空間。路上生活者は生きるために高解像度で空間に接し、隙間を見つけたりして生き延びる。かつて誰もが持っていた野生の思考が生きる。市場で交換される物質は貨幣と引き換えに、物語やら感情は排される。路上生活者は物質(ゴミ)に感情を与える。彼らは技術を活かし、物質を組み合わせ、交換=贈与する。著者は家賃というシステムに疑問を持つ。動けば、不動産じゃない。ということで、大体三万円でモバイルハウスを作る。法律上は軽車両だろう。これで衣食住のうち、住は大いに貨幣経済から解放される。
2011・3・11前に著者は飯田哲也氏から原発の危険性についてレクチャーを受けていた。そして、警告通りのことが起こった。
第二章は「プライベートとパブリックのあいだ」と題して。
著者は学生時代に大工の修業をしていて、建物の基礎にコンクリを流し込むことに生理的な違和感を感じた。昔は石を置いた上に建築していたのに、何て無駄なことを、と。だが、匿名化した社会ではそれがルールであり、「無批判に」受け入れなければ建築できない。ちなみに、法隆寺には基礎がない。で、こうやって「不動産」にされる。また、土地基本法第4条には
「土地は、投機的取引の対象とされてはならない。」とあるのに、実態は皆様ご存知の通り。土地と家は合体させられるし、土地の私有はそもそも無理筋だと小生も思う。
さて3・11後の放射能汚染。政府が所有権を重視するなら補償するはずだが、徴税にしか関心がなさそうだ。政府は多層のレイヤーで物事を見つつも、人々には単一のレイヤーで生きることを強いる。それに乗るほうが楽という面もあるんだが。所有が束縛となっている。面白い庭がある。道路脇で、車の上に植木鉢。駐車場兼庭。車を置くことで駐車場、その上に植木鉢。発車と入庫の時は植木鉢を除ける。これがレイヤーだ。公園を庭師でDIY。「プライベートパブリック」。身体感覚を活かして工夫し、公共を自ら変えて贈与。高速下に予算消化のために作られた公園があるが、そこの滑り台を0円ハウスに。公共を担うはずの政府や行政はよそよそしく、役に立たない。この構図は原発事故後に抜き差しならない形で著者に突きつけられる。じゃあ、DIY的に新政府を作っちゃえ。勿論、別のレイヤーで。奴ら(国会議員など)は家族を東京から逃していた。国民に非難を呼び掛けなかったことは、政府の役割の放棄である。筆者は熊本に避難所を作った。筆者は新政府活動=社会を変える行為を、「芸術」と呼び、活動費を芸術の生活費として申請。旧政府の法律の罠に引っかかるからと、ボウエンアイランド市長であるジャック・アデラーの助言か。
新政府の政策の柱は「自殺者をゼロにするために全力を尽くす」。その証拠に、死にたくなったらここに電話することと、ツイッターで明示。090-8106-4666 @zhtsss
新政府活動の始まりは、熊本への避難生活支援(ゼロセンター)。移住者は六〇名以上に。国家の成立条件は「国民(ツイッターのフォロワー)」「政府(著者の内閣)」「領土(銀座など)」「外交(熊本県)」でOK。内閣には中沢新一、鎌仲ひとみ、藤村龍至ら。知人を勝手に大臣に任命。福島の子供五〇人を「0円サマーキャンプ」に招待。フォロワーから投資資金が。人を援助するのは自然なこと。
私有は狭い概念であることが問題で、働きかけの範囲を広げ、占有を排すれば私有は広い概念となり、公共につながる。
第三章は「態度を示せ、交易せよ」と題して。
著者はナイロビで日本と違う経済を体験する。リーダー(お金農家)は書類を書いてお金をゲット。失ったAV機器は誰かが拾ってくる。音楽で楽しませる者あり、金は払える奴が払う。場が大事で後は従。経済の語源は「衣食住と共同体はどうするのか?」ということ、すなわち、社会を変えようとすること。それを筆者は芸術と呼び、芸術=経済とする。特に彼にとっては住まいの問題。匿名化したシステムからいかに離れるか。なお、匿名化は知恵でもあったと、アダム・スミスを尊敬する小生は思うのである。さて、筆者は「態度経済」を言う。飢え死にはまずい、そこで相互扶助。人間の活用。お互い楽しむため。「人を招いてごちそうすること」も態度経済だ(勿論、毛沢東への皮肉。)知り合いかどうかは関係ない。打てば響く「労働」。面白いかどうか。すでに路上生活者がやっていること。新しくはないと著者は言う。こうして、コミュニティーは重なっていく。生きる=経済=芸術。ある人にとってはお金はコーラ券に過ぎない。交換ではなく交易を。いや、市場ってのは、その交易の果てに相場が作られ、、という野暮は言うまい。楽しさがあればいいんじゃないか。相場という疎外態は便利だが、無機質だ。「思考都市」これはこの本では分からない。宿題。
学校では授業に従う社会(学校社会)と放課後の社会(放課後社会)があると筆者は言う。サンリオの真似、RPGや新聞の制作。新政府はそれの延長かな。放課後社会は人の数だけある。その人たちの持つレイヤーを交易させること。既存のシステム(学校社会の延長)を転覆することではない。それはそれとして大事に考える。意識の幅を拡げる。多層化を認める。なお、個に属するレイヤーは匿名では無理だ。序列も問題にならない。筆者は、偏差値では届かない早稲田の建築科を目指した。そこに石山修武という師匠にしたい人がいたからだ。筆者に言わせればそれも態度経済。生き方の問題だからだ。そこに推薦が飛び込む。考え、コケ、学ぶ。考え続ける。大学時代のバイトで、ホテルのチップを知る。態度経済を確信する。署名入りのお金もあるのだ、と。裸の情報が大事だが、情報の服を一枚一枚剥いでいくことで見えてくる。無意識に依拠する「学校社会」は服を来た情報で成り立っている。ここに考えることを作用させ、裸にしていくのだ。・・・って、サラリーマン、誰もがやっていることだね・・・。
筆者はそれまであった卒業論文に魅力を感じなかったので、今すぐにでも出版したいと思わせる作りにしようと考える。出来たはいいが、出版の術を知らない。本に詳しい高校時代の知人に訊き、リトルモアという出版社に持ち込む。契約は対等であるべきことを意識。初版の三千部の印税はゼロでいいが、以後の重版で印税を一〇にして欲しいと申し出る。先手を打って態度経済を貫く。次に日本だけでは売れず、海外で売るために動く。弟を通じ、翻訳家にギャラ五万円で翻訳依頼。そしてポンピドゥー美術館などを巡る。新しい出会いの中で、展覧会出品まで決まる。新しい芽を喜ぶ欧州の空気を知る。バンクーバーで写真が売れる。購入者はコレクター。作者を知りたく、会いたいとメールを送る。ジャック・アデラーという弁護士。後に新政府と外交を結ぶ。彼は本当に家に来て、ドローイングを見つけ、買いたいという。五〇万円の値段をつけたら、両方の考えた値段と一致し、即決で売買成立。五〇万円と決めたら、死ぬまで五〇万円。彼の態度経済=交易。黒胡椒の売買の姿。後、アエラの連載を持つ。「頭の中はよりカオスに、アウトプットはよりシンプルに。」それが単行本発行の仕事につながる。三五〇枚の原稿を計画を立てて書く。こうして『TOKYO0円ハウス 0円生活』が出版される。交易では分かり合える必要などない。経済=生き方が皆、違うのだから。匿名化されたレイヤーと取引しているわけではない。だが、間違えてはならないのは、分かり合えないからこそ、匿名化したレイヤー(学校社会)は発生・発達したということ。
第四章は「創造の方法論、あるいは人間機械論」と題して。
脱原発は脱政府、脱会社ということになると著者はいう。それは可能か? できっこないと断言。だから違うレイヤーに新しい政府を作った、と。逃げるという蜂起。独立するという蜂起。これが出来るのは若者だけだ。本当に社会を変えるのは若者だけなのだ。(と、再び毛沢東を思い出したりして)。四〇歳を超えたら、人を繋ぎ、金を出す。自分のやりたいことではなく、社会に必要なことを。疑問を問いにして創造に繋ぐこと。無意識のレイヤーは楽でよく出来ているが、零れ落ちる部分がある。疑問が出来る。次に具体的に、行動と結びついた問いを。実現に向けることが創造。孤独だが、仲間はいる。
著者は躁鬱病らしい。鬱期は無意識生活で、景色は灰色。希死念慮が襲う。「疑問」を見つけるため必死に考える。「重力が強いところで訓練している孫悟空みたいな状態かもしれない。」(p167) この鬱期こそが一番の「創造」とのこと。差別、階級、貧困、この無意識だらけの無思考な社会! それと格闘する。「死ねない」。
態度決定のためには予断を許さずに自分で考え、断定する。それが責任であり、思考だ。それがないと腐る。批評される都市。間違いを前提とし、相互扶助する社会。誰にも責任がある。「思考」「責任」「断定」「答え」。「これを熱源にして体という機械を動かす。」(p172)それが著者にとって生きること。答え出さないと都度暖気が必要という。体や心の動きを部品と捉える。動かすということを可視化する。
動力源はお金じゃない。社会の実現=芸術だ。使命なのだ。 断定生活は効率がいい。アスファルトの上の強制された高速走法ではなく、土の凸凹を感じた走法。才能には音色があり、上下はない。技術にはあるが。音色の交易が経済である。
「才能とは、自分がこの社会に対して純粋に関わることができる部分のことを指す。」(p176) その才能――社会を変える――の部分だけ自分ひとりで死ぬ気でやり、任せられる部分は他人に任せよう。もっと楽にしよう。楽をするにはパトロン――恐らく仲間――がいる。隣の天才を見逃すな。一緒に協力して「生きる」ことを選ぶ。
絶望の考え方。「望みが絶たれた」のではなく「望みを絶った」と考える。そして図書館へ。本当にやばいものだけに反応する眼をもって。
みんな絶望することは駄目なことだと判断し、そこから遠ざかる。だから、こんな味気ない政治しかできない人間たちになったんだ。味があるよ、音色があるよ、本当の人間には。
……食材自身は料理ができない。つまり他者が料理する。それが人間関係。
……死にたい時に行動しようとするから人は死ぬのだ。……考えるという行為は0円だ。……とにかく見る。……鬱病と言わずに、千利休病と言えばいいじゃないか。
(p184〜)
鬱による高い解像度で自分自身に巻き起こっている現象を解析すると生きるためのヒントが出てくる。そこで、他人を簡単に信じると、「主義」になる。そこには思考はない。自分のものではない「生」になる。
「ism ではなくiZoom」。 capitali-zoom。資本主義にどっぷり浸からずに、資本主義とは何かを考える。問いとする。解像度を上げ、抽象的な思考でもって、具体的な「生」と向き合う。部屋には色々なものがカオスに置かれていよう。これが俺のレイヤーだ。
終章は「そして0円戦争へ」と題して。
新政府について。先の福島キャンプの継続。市民が政策を提案し、自らで実現する。行政に見せて納得させ、組み込ませる。敵とみなさず、勝手に自分たちで範を示す。そして、多くの人を巻き込んでいく。次は、憲法25条を守った安全地帯をつくる。Zero Public, あるいは「0円特区」。過剰生産の世の中を逆手に取る。家は余っているのだ。さらには「お金を稼ぐこと」そのものにメスを入れようとする。思考による革命だ。多摩川などですでに起き始めている革命である。余っている土地を全て新政府の公有地にする。空き家、休耕地なども。そこに何かを植えて、勝手に収穫する。住まいはモバイルハウス。井戸の復活。菜の花バイオ。移動が前提。・・面白そうなので、銀行から協力オファー。
永続革命だな。

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