『嗤う日本の「ナショナリズム」』(北田 暁大著、NHKブックス)
現在の日本の大衆の内面を示している良書。マルクス主義がまだまだ大衆に権威のあった時代である60年代から始めて、その後の大衆の内面の移ろいを描いている。
さて、この本を論評するには自分の立ち位置(であったもの)を書く義務があろう。1965年生まれの小生は70年代の熱くも物悲しい時代の空気、80年代のイロニーを皮膚感覚で経験している。90年代は、仕事が忙しく、ちょっと皮膚感覚というわけにはいかなかったかな。で、個人的に大事なのは1980年代のわけだが、正直、学内にまだまだ一杯いた(党派的)左翼の「一定正しいけど絶対に時代の変革の指標とはなりえない行動・主張」(寮闘争を除けば、基本的に支援=自分たちの外部のこと、始原的なマルクス主義階級闘争観などなど)に大いに違和感を感じたが、一方、記号論などに醸成されたイロニー文化にも「言葉遊び、薄さ、生活実感のなさ」という違和感を感じた。当時イトイ的なものにコミットしていれば、嵌っていたのかも知れない。まぁ、現実には地に足がまだ着いた左翼である日本共産党(左派)と一番つるんでいたり、「今」というよりは、「過去の」条件で紡ぎ上げられたマルクスやレーニンの古典にいそしむ道を選んだわけではあるが。(それがそのまま現在に適用できるなどと思ったことは全くない。ここを読んでいる某労組の幹部様、そういうことです(笑)。小生にビビッて活動中枢から排除してたのは杞憂でしたよ。)
で、この本である。マルクス主義についてよく言われる皮肉、「プロレタリアートの解放理論であるマルクス主義者を理解し、先頭に立って闘うものはプロレタリアートではなく、ブルジョアインテリゲンツィアである」はこの思想が成立してから影のように付きまとう。レーニン、トロツキー、毛沢東、いずれも小金持ちの子供たち。これはこれで仕方がないと小生は思う。んでも、そういう立ち位置を巡る問題は純真な学生さんたち、インテリたちを悩ませ続けた。一つの回答はマルクスが断固と斥けた姿勢〜代行主義と急進主義である。その一つが連合赤軍である。立ち位置を巡る問題から自己否定は必然であるが、彼らはそれを順化する中で、理想主義が誘う死(総括)へと突き進んでしまった。ここでは矛盾に満ちた生ではなく、形式が問題である。死へ突き進んでいるくせに、生きているように見せかける形式が前面に出る中で、彼らはゾンビとして振舞わざるを得なくなった。このことを受け、当時のマルクス主義者は「自分たちとは関係ない」と厚顔無恥に振舞うか、ラディカルな形での挫折を受苦して運動そのものから離れるか、あるいはそれなりに自分の立場から批判的にかつ多少の同情の念をもって総括(笑)したりした。
で、問題はここに立ち止まらなかった。この日本史的な事件はマルクス主義のある種の限界を大衆の面前に示した。そう言えば、ポルポトの残虐も同時期である。何だかんだ言いながら、未来は社会主義(多分にそれはマルクス主義に指導される)と漠然と思っていた多数の大衆に影響がないわけがない。イトイはそういう時代の雰囲気を受け、そして大衆消費社会へと邁進する日本の社会構造を踏まえて闘いの橋頭堡を人々の内面に作る、というか繋留させようとしたのだと思う。資本の運動、資本が提示するものに対して正面戦を闘うのではなく、その中にもぐりこみ、時にはそれと一体化しながら「何か」を遺そうとした。それが「抵抗としての無反省」であり、この本で言うユーモアである。
だがだが。1960年代を知らない若者たちは、ユーモアの形式に育まれた。そして「熱い」何かと戯れるよりは、形式と戯れるのである。この時代の若者は、大人としての物心ついたときからゾンビなのである。だけどね、著者と同時代に生を享けたと言っていい小生がこの本に違和感を感じたところはこの時代の記述にある。当時、若者がゾンビ然として振舞っていたことは確かだけど、その中に後の世に発生するロマン主義への希求がなかったかといえば、そんなことはなかったのではないかと思う。例えば、「ミーハーのための見栄講座」(ホイチョイ・プロダクション)の巻末には、こんなことを書いていて、共感した記憶がある。「どんな人でも大抵は素人、すなわちミーハーから入るのだ。この本が”本物”に至る道を示しているならば幸いである。」当時から人間になりたいゾンビだったのだ。
そして、ゾンビとして振舞っていても、生活はある。当時は中流意識が非常に濃く、そして実際に所得格差も小さい時代だった。すなわち、ゾンビとして大衆が振舞える(それだけの物質的基礎が保障された)幸せな時代だったのだ。でなければ、TVメディアに淫して、それが生活となるようなナンシー関を育むことは出来なかったであろう。そして、これは70年代にはじまるのだが、TVが生活の中心となるような大衆も発生しなかったであろう。今、その条件が壊れつつある中で、ロマン主義が発生していることは注目に値するであろう。所得格差、新メディア=2ちゃんねるに代表されるインターネットというメディア。
まとめ。ゾンビとして振舞うことの空しさは、マルクス主義のある種の破綻以降、多くの人に意識的にせよ無意識的にせよ分かっていたと思う。シニシズム(今出た「死に沈む」という誤変換は何て皮肉なことだろう!)に対しても、シニシズムでもって望まなければならない時代になってしまったのだ。記号・形式が消費され尽くすと同時に、グローバリズムは物質的基礎をも剥奪しようとしている。
勿論、だからと言ってすでに破綻した意味でのマルクス主義に回帰しても、それは反動的なことであろう。問題は、戦術、戦略を腰を据えて構築することである。勿論、マルクスに心を寄せるものとしては、マルクスやらレーニンやらグラムシやらに学ばなければなるまい。処方箋はこの類稀なる思想家とともになら、紡げそうな気がする。彼にもいまは、そんなものはないようだが、そう主張する誠実さには共感する。

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