『電波男』(本田透著、三才ブックス)
脳内各種TAMO2が何やら色々喚いているので収拾がつかないけど、書く。
古代ギリシャでの哲学はイデアリズムが常態であった。汚れた現実よりも、キレイな理想。現実の少年の多様性の中に、美の法則性を見出し、その法則をイデアと名づける。イデアのほうが大事だったのだ。だから、二次元萌え!は人類史の中においては特段異常でもなんでもない。だが、ギリシャやらローマやらが滅びると、その「汚れた現実」での実践こそが、救いの道であり、愛の顕現なのだとする宗教が現れた。キリスト教である。そして、それが姿を変え、世界を支配した。カウンターとして起こったはずのマルクス主義も、受肉思想としてキリスト教を引き継ぎ、やれ実践やら喧しい。暴力へのカウンターは「今や最後の闘い」としての暴力革命。立ち居地を決め、主体性を求め、いざ闘いへの実践へ!マルクス主義はここでは本来どうでもいいのだが、そのくらいキリスト教の枠組みは凄いのである。(へ?本来のマルクス(主義)はキリスト(教)の正当な後継者である?まあ、そうだけど。)
で、キリスト教の精神から生まれ、一番強烈に世界に伝播したのは資本主義とそのイデオロギーであろう。但し、それは共同体イデオロギーとしての#それ#ではなく、プロテスタンティズムによって脱臼され、モナド化された個人のための仕組みとイデオロギーである。まあ、確かにそういう個人主義は帝国主義段階でそれもまた脱臼させられるんだけど、弱肉強食優勝劣敗という、まったくもってキリストの愛の精神とは無縁の宗教と成り果てて。そして、ここしばらくは新自由主義というイデオロギー(に過ぎないんだよ!)により、そのモナド化に根拠が強く与えられた。そして資本主義は禁欲によって成長したかも知れないけど、高度資本主義においては大衆の消費能力(強欲)を基礎として成長・維持される。そのための仕組みの一つが、恋愛資本主義なのである。欲望を惹起され、大量消費させる仕組みの一つだ。
だが、ここに一つの罠がある。単なるモノの消費ならば、そういう仕組みがかなり継続可能であったろうが、恋愛資本主義においては女性のための消費を男性が選択しなくてはならない。先進資本主義国が比較的平等・高収入を大衆に保証できた時代ではこれはソコソコ機能していた。クリスマスは商業化し、ジューンブライドに向けて3か月分の給料をはたいて指輪購入。おめでてえな。って、俺もな〜だったのだが。思えば、おめでたい状況で小生はケコーンできたのだ。
しかし、バブルがはじけ、「優勝劣敗は世の習い」という畜生社会(繰り返すが、新自由主義なんてイデオロギーに過ぎないのだぞ!)が正当化され、常態化してくると、そんなことをやってられなくなる男が発生する。銭ないし。イケメンDQNは鬼畜として World without Love なセックスをし(プギー)、イケメンじゃないパンピーは上記恋愛資本主義に宣伝(洗脳)された女性によってアウト・オブ・眼中に置かれる。(この本の説の後追いだよ。異論はあとで。)三次元の世界に行き場を失ったパンピーの多くは二次元へ移民する。小生は、これを軽々しく「逃亡」とは言いたくない。なぜかはまたあとで。
この段に及ぶと、男性は三次元の女性のために消費しなくなる。これは、恋愛資本主義を脱臼させ、無力化させる革命の一つである。ならば、「フィギュア萌え族(仮)」などと言う自称半共主義者大谷某は、実はとんでもない反革命ではなかろうか。おっとっと。脱線。資本主義社会が用意した欲望の惹起の道を無力化させる動きを資本の側が座して放置するはずがない。一つは、
萌える人への差別。宮崎勤を奇貨とした反オタクキャンペーン。今は「負け犬」によるオタク蔑視キャンペーン。しかし、おそらく近未来においては、量は質に転化する。今でさえ3兆円産業とも言われるオタク産業を、資本は体制内化しようとするだろう。かつて社会主義・共産主義運動について、核である「革命」を脱力・卑俗化し、体制内化して資本主義は延命を図ったように。
別に小生はそれを悪いことと決め付けない。左翼の過ちをオタクに押し付ける権利はないからだ。ただ・・・「しろはた」8年の読者として本田君には悪いけど、浮かばれないと思うのである。なぜか。真の敵は負け犬女という洗脳された被害者でも、家庭を不幸に作った人でもないと思うからだ。
一つの美しい文章がある。
人間としての
人間を、そして人間的なものとしての世界にたいする彼の関係を前提とせよ。そうすれば、君は、愛は愛とだけ、信頼は信頼とだけ交換することができる。もしも、君が芸術を享受したいと思うなら、君は芸術的教養をもった人間でなければならない。もしも、君が他人に感化をおよぼしたいと思うなら、君は実際に他人を刺激しふるいたたせる人間でなければならない。君の人間にたいする――および自然にたいする――すべての関係は、君の
現実の個人的生命が、君の意志の対象に応じて、
特定の仕方で
発見したものでなければならない。もしも君が相手の愛を呼びおこすことなしに愛するならば、すなわち、もしも君の愛が愛として相手の愛をうみださないならば、もしも君が愛しつつある人間として生命発現によって君を愛された人間とするのでないならば、君の愛は無力であり不幸である。――『経済学・哲学手稿』(K・マルクス)
こんな美しい関係は、銭が重たい資本主義ではおそらく無理だろう。資本主義は欲望が動力の仕組みであり、どんなに言いつくろっても愛をむき出しにすることは困難である。金がないのは首のないのと一緒なのである。資本主義において、愛とは非常に困難なものなのである。(勿論それでも、情(じょう)は湧く。家族を愛し、国(国家じゃないです!)を愛することは無条件なものだ。)純粋に愛を追求するならば、資本主義を撃たなければならない。だが、この文章を書いた男の言う革命は無効であることは、ミヒャエル・エンデの『モモ』のマルクスの寓話に示された通りである。オタク革命は、多分敵を措定する革命ではあり得ない。負け犬女に代表されるオタク迫害者の哀しみを本田君はこの本で分析している。「なに、踊らされとるんじゃ!」と。そう、愛なのだ。愛こそが救うのである。金が金を産むような、大手資本の搾取の構造から自立してこそ、人間は救われる。オタクの経済圏は、見事に地域コミュニティーを形成している!
そして、まずは、オタクは現実の残酷から脳内二次元世界によって自らを救う。だが、それだけでいいのか。人間は社会的動物なのだ。結局、宿命的に他者とのかかわりの中に生きているのだ。
萌えは陣地戦である。現代のディアラスポラである。だが、陣地もディアラスポラも将来の反撃のためである。いな、レコンキスタ(失地回復)かも知れない。かつて、恋愛資本主義なんてもんが成立するような条件がなかったころ、そこそこ・ちょぼちょぼの男女がそれなりに金のかからない恋愛をし、あるいは見合いをして、結婚していた。相手に過剰なものを期待しなかった。憧れ(幻想)はあるにせよ、そういうものだった。結婚してからが関係を作る本番だと。本田君も、負け犬さんも、何かが過剰なのだと思う。本田君の過剰は思いっきり共感するけど。そのころは、人間を多面的に見て、ええとこ、悪いとこを見、合う合わないを見極め、妥協する術に優れていたろう。簡単な話、恋愛至上主義という点では本田君も負け犬君も同じ座標軸に乗っていると思う。二次元化しているか、三次元化しているかの差はあるけど。この座標自身を脱臼させるのが大事かと。そういう陣地戦になって、それに勝利してこそ、オタクの求めるべき新天地=「二次元は独自の、至上の価値がある」という、構造主義的な認知を大衆化させることが可能なんじゃないかな。
まあ、性幻想という本能に属するものにこんなことを言うのも「アホ」かも知れないが。世の中が豊かになったから、恋愛が大衆化したという話もあるしね。左翼的には、イネッサ・アルマンに贈ったレーニンの手紙。大昔から、恋愛が「ぷぎー」なものに転化しやすいことを撃った、レーニン万歳! ←どうでもいい。エンゲルスは『起源』でもっとひどいことを言っていたけど。
しかしまあ、オニババとか、オタクとか、負け犬とか、そういうところから離れている大衆のほうが圧倒的に多い、というのは知っておいても悪くはないだろう。そういう意味では、メディアに乗せられない大衆、そういう女性に傷つかずに生きる大衆のほうが圧倒的に多かろう。だけど、オタクや負け犬はわれわれとは無縁ではない、同じ時代で呼吸しているのだ。彼らは前衛かも知れない、前衛は必要とされる限り大衆化するのだ。

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