『暴力論』(ソレル;岩波文庫)
いずれまた、詳述すべき書物と思う。非常に簡単に触れると、次の付録に述べたいことが凝縮されていると考えていいと思う。そして、それは今でも妥当すると思う。
(下巻、p183;振り仮名は除去)
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付録一 暴力の弁護
民衆に対して革命的な言葉を話しかける人たちは、誠実に関する厳格な義務に服従せねばならない。何となれば、労働者たちはこれらの言葉を、言語が彼らに与える正確な意味において理解し、そして決して象徴的解釈に身を委ねたりはしないからだ。一九〇五年に、私がプロレタリア暴力に関して、やや深刻に書くことを敢えてした時、私は、わが議会的社会主義者たちが、かくもたくみに隠蔽しようと努める諸行為の歴史的役割を示そうと試みることによって私のとった重大な責任を、完全に理解していた。今日、私は、社会主義は暴力の弁護なしには生存し得ないであろうと断言することを、躊躇しない。
プロレタリアートがその存在を確認するのは、諸罷業のうちにおいてである。私は、食料品屋とその乾季の供給者とが価格に関して妥協し得ないので彼ら両者の間に生ずる取引関係の一時的決裂にも似た何ものかを、諸罷業のうちにみるような気にはなれない。罷業は、一つの戦争的現象である。だから、暴力は罷業から消滅すべく運命づけられている一つの災厄であるというのは、一つの大きな嘘をつくことを意味する。
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我々は、プロレタリア暴力というものがどのように誤解され、そしてそれがどういう悲惨な結末を迎えたかを知っている。一つはこの本の最初に書かれているファシズム、社民要撃論、内ゲバ、あるいは共産主義国家における粛清。色々様相は異なるが。
ソレルは、慎重な言い回しで法律や軍隊を利用した国家と結びついた支配階級による暴力と、それに対抗するプロレタリアの暴力を区別する。プロレタリアの暴力は罷業の形式において最高の形態をとり、権力を奪取する。これは、日本共産党に媚びて言うならば、「組織された強力」のことである。だが、現実の闘争は、いわゆる暴力という形態を採らざるを得ない局面が確かにあり、それについても彼は断固として擁護する。この辺、曖昧にして「何にしても暴力はいけません」と単純化されたから、日本の階級闘争は腐ったのだと思う。小生が考えるに、暴力がダメだったのではなくて、その継続性(暴力を継続することだけじゃなく、土俵が変わったらそれに応じて柔軟に土俵を変更することも含めて)に問題があったのだと思う。
さて、細かい話になると、国家が階級対立の道具であるとはマルクス主義者によく指摘されることである。しかし、ボナパルティズムに代表されるように、支配階級自らが支配を継続するために、被支配階級のことを慮って(例えば福祉国家)支配することを、ソレルはブルジョアの堕落とする。破壊性・攻撃性こそ、旧い紐帯を破壊する、その矛先がプロレタリアにも向けられたとき、プロレタリアは先鋭化し、革命を意図する、そして「悪い」ブルジョアこそ、革命的プロレタリアを準備するので、実は革命的だと。まあ、ヘーゲル的に言えば理性の狡知なのだろうか(笑い)。そう考えると、極左が妄想する「徹底した新自由主義こそ、プロレタリアを目覚めさせる」というテーゼも、根拠なしとは言えない。俺は嫌だが。
革命の残酷についても、興味深く納得できるものがあった。革命が国家という枠で行なわれると、その革命国家が命じる規範は混乱を乗り切るために絶対視され、敗北は裏切りと見なされ、その要因となったものは裏切り者として処刑される。なるほど。ロシア革命や中国革命でも繰り返された残酷だ。(上巻p171あたり)そして、その規範は旧体制はおろか、自然法への復帰をもくろむことによって、ヨリ残酷となった。「何ものにも依拠しない、ただ人民の直接的な暴力に依拠する権力」の残酷さはよく知られているところだが、この辺に根拠があるのだろう。剥き出しなのである、人間というものが。げに革命では人間が素っ裸で問われるのである。
第七章の生産者の倫理も未来を考える上で興味深い。これは、大坂仰山党板に2005年9月16日に書いたとおりなので、割愛。
また、いずれ。今日、図書館に返却しなければならない。愛知県から借りてきたもののようであるから。迷惑をかけるわけにはいかない。

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