『バカにつける薬』(呉智英著、双葉社)
大学生の頃、小生に社会党系市民運動を紹介してくれた恩人にドマスさん(仮名)がいる。この方は常々「社会党はダメだ、甘すぎるし馬鹿ばかりだ」と言っていた。小生が社会党の崩壊を予感したのは、89年おたかさんブーム〜マドンナ旋風での浮かれようを見たときだが。議会で何かする前に、あんなに浮かれていては何も出来ないだろうと。その予感は当たった。でも、ここの書評とは関係ない。。。。と言いたいが、微妙に関係する。
その頃、ドマスさんが読んでいたのがこの本である。借りて読んだが、分かったような、分からなかったような。ただ、この本に珍左翼として分類されている上野昂志氏や岡庭昇氏の読解能力のなさ、このレベルの書き手が出版できることに驚いたことは覚えている。これじゃ呉智英氏がバカと罵倒するのも致し方ない。だが、誤読とか、読解能力のなさは他人の場合は分かりやすいが、自分のことだと分かりにくい。これは、ネットをやっていて常々痛感させられる。
例えば、第二章の「土人」問題については、呉智英氏も誤読しているな、と思ったことがある。それは、牛ノ濱氏の批判への反批判を読んでの感想だ。呉智英氏は『「土人」とは、本来「土着人」を意味する言葉です』として、まずは差別語ではないと規定する。注意すべきはそういう言葉へのコンセンサスのもとでアイヌ人対策の「土人保護法」が作られた、と呉智英氏が判断していることである。そして、その後、『時代が下るにつれて「土人」が「南洋で未開野蛮な生活を送っているはだしの人たち」の意味に拡大されて使われるようにもなりました。』だから、アイヌ人=土人と表現することが差別と言うものは、まさに(土人への)差別主義者ではないか、と氏は問う。言葉狩りに反発してきた氏らしい考えで、筋は通っている。そして、「土人」という言葉を差別語規定から救おうとするのだ。
一方、牛ノ濱氏は次のように言う。そもそも「土人保護法」で規定されている「土人」という表現に、審議録を引用して差別的意味づけがなされていると主張する。これもこれで筋は通っている。
差別語が難しいのは、一般語が差別語としての意味合いが出てくることだ。一般語としての「土人」は差別語とはそもそも言えない。だが、牛ノ濱氏が示した「土人保護法」の審議録においては、まさに差別語としてのそれだ。
呉氏の反論は、「土人」という言葉そのものを救うことを再度意識してなされている。これでは、かみ合わない。しかし、これは「呉智英氏がバカ」というレベルではない。問題意識の差異に起因するものだと思う。第三章では、山路愛山の『韓山紀行』で同じ構造が示されている。
誤読は往々にして、書き手の背景と読者の背景に起因する。これは、上の例のように対話を通じてでも解決不可能と思うこともある。そこにおいて、相手がバカに見えることもある。呉氏が牛ノ濱氏がバカに見えたように(この本に書かれているから、牛ノ濱氏=バカと呉氏が決め付けたと考えても良かろう。)
さて、上野、岡庭のような珍左翼の発生根拠は、旧・新左翼の枠組みが時代の変化で無効になったのに、未だにそれが有効であるかのように考え、破砕された断片を無理矢理現実に当てはめようとする軽薄かつ卑しい精神にあると呉氏は言ってると思う。小生の考えを付記するならば、レーニンの軽やかかつラディカルな精神とは逆だ。小生がこの手の卑しい精神の無効を思い知ったのは、オウム騒動のときの岡留〜小林(よしのり)論争のときだが。後家左翼とは上手く言ったものだ。後家さんは後家さん独自の人生を生きるべきだ。まあ、ブログ時代にあっては、このような珍左翼という、大抵のブロガー以下の水準では、「歴史のゴミ箱へ行き給え」というしかないだろうが。奇異の時代は去ったのだ。
第二章で面白かったのは、吉本隆明論。確かに、吉本はマルクス主義を信じてはいない。だけど、否定もしていないと思う。「そのやり方は無効だ」と、彼独特の大衆(分衆?小衆?)論を駆使しつつ、当時力をもっていたマルクス主義(党派)を批判したというだけで。(良くは理解していないのだが。)で、そういうのをシロートとこの場合言えるのかなあ? それから、マルクス主義を狂信(盲信)なかりせば成立しない宗教の神学に喩えているのは、皮肉としては強烈だ。本来、そこから解脱しなくてはならないのにね>マルクス主義。まあ、それは仕方のないところでもあるが。(どこかに基礎付け=狂信がなければ、主義は主義たりえない。)
第三章。読書目録で左翼への愛を感じる(笑)。闘う書評では宗教のもつラディカリズム――それは狂気と言うべきだ――を改めて突きつけられ、聖と俗、大衆と知識人、などの問題を突きつけられた。突きつけられただけだが。パリサイ人たちの欺瞞を分かっていても、世俗に基盤を持つ我々は「跳ぶ」(p182)ことができないのだ。信心が起こったときに、信心のために全てを捨てて仏門へ入る。あはははぁぁぁ・・・(自嘲)。とはいえ、跳ぶことは真理だとしても、宗教の不可能性は、例えば「知悉仏性(釈迦は言ってないという説あり)」で、一切衆生が跳ばねばならぬ点にある。あらゆる宗教、思想はかような不可能性に立脚している。キルケゴールの言うように、その完成は死のみである。
教養人の危機。うまく言うよなあ。しかし、現在にあって教養を身につけることは、殆ど不可能ではないだろうか? 立花隆のように、職を捨てなければならないのだろうか? 一つの回答は、謙虚しかないと思う。
第四章。愛、性、近代社会。三題噺。その不可能性。愛=純潔という近代的概念は、ハメハメを許せば(許すじゃなく、期待する)自由に旅行できる旧来の日本庶民へのアンチテーゼ。なんだ、ある部分は変わらないじゃん。北村透谷らは、現在ならば本田透(電波男)だろうか。同時に、この三題のあり得なさ(不可能性)も中島みゆきを論じることで提示。これは、概念というもの一般の不可能性にも繋がることを中山みきを論じることでも提示。呉智英はさすがだ。だけど、文句も書いておこう。レーニン『国家と革命』を愛と性と家族の論に位置づけるのは、この場合はいかがかと思う。イネッサ・アルマンへの手紙なら別。それから、エンゲルスは『起源』で、未来においては一夫一妻制が欺瞞ではなく真実になる、と説く。本当にそうなるかどうかは知らん。俗物どもの夢想と、原理的なマルクス主義は無縁。
第五章。共産党(や朝日・岩波教養主義)の硬直、欺瞞を見抜いた人が、同様の硬直、欺瞞(思い上がり)に毒される構造は、何に由来するのか。ペーソスを感じる。
再び左翼について。呉智英氏は自らを封建主義者と位置づける。だが、彼が左翼的なものにも価値を認めている(少なくとも、心理的には)と思う。むしろ、左翼と目される人たちのいい加減さ、バカさ、ラディカルさのなさが、呉智英氏をして自らを封建主義者と言わせしめているのではないだろうか。p157より。『いずれも反革命の研究であるが、反革命の研究の方が面白いというのも、ナサケナイ状況である。』次、p160、羽仁五郎の本によせて、『まあ、思想の根源を問い直そうという姿勢がひとかけらもない。羽仁たちの講座派歴史観の限界が右傾化をもたらしたのだなどとは考えてもいないのだ。』次、p177『ダントンやロベスピエールの狂気によって成り立ったフランス革命がなければ、戦後民主主義の基礎にある諸概念なんて、ありはしないのだ。』

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