『中国はいま何を考えているか』(大西広著、大月書店)
大西広氏は共産党員にして、サッチャーを尊敬しているらしい。レーニンも尊敬している。どちらも日本のサヨク(特に市民系)には大変な嫌われようだ。しかし、悪党の眼から見れば、どちらも「浅ましいほどの実際家」という貌があり、学ぶべきこと多とする歴史的人物である。(サッチャーを思うとき、左翼としては例えばレーニンがストルイピンの政策を『健全なる反動』と呼んだことを忘れてはなるまい。価値観を超えて学ぶことが出来るものが、本当のマルクス主義者だ。小生はマルクス主義者と違うが。いいとこどりだけ。)
大西氏は日本に一杯いる偽善的・欺瞞的なサヨクとは違い、「ワシら生活かかっとんのや〜」という実際的なところから物事を評価する。この本の本題とは違うが、その態度がこの一番分かりやすく出ているのは憲法九条論だろう。彼は韓非子などを引用して、戦争以外の手段ではコトを解決できない歴史的状況があることを示す。そして、そのような状況に今はないこと、むしろ、「諸国民の信義に信頼する」ために、その信頼に足る外交をなすほうがモアベターであるとする。納得させられる。ただ、この戦略なら、必要ならばいつでも改憲〜武装できる道を用意しておかなければなるまい。護憲運動を中心的に担っているサヨク諸君には受け入れ難い論理でもあるが。
さて、中国。著者はマルクス主義者らしく、中国のナショナリズムは中国の国力の向上の反映と言う。それは、かつて高度経済成長で起きた日本のナショナリズム――考えれば戦後日本最大のナショナリズムの高揚は安保闘争であった(以下の右翼サイトを参考のこと)――、
http://members.at.infoseek.co.jp/nahama99/1.html
と同じ道筋を辿るものである。そして、日本のナショナリズムは(相対的に)衰退する国家のそれである。これらは表層的にぶつかっているが、共通の利益を措定できるし、長期的には解決するものであると著者は考える。実務レベルではかようなナショナリズムに汚染された動きはないという現実を知るので、著者に同意する。しかし、今現れている両方のナショナリズムは両方の国益を損ないかねない懸念があることも、見ておかねばならないと著者は言う。例えば、中国新幹線は本音では日本から購入したい中国指導部だが、マスメディアに煽動された世論を鑑み、日本からでなくドイツから購入したことなど。
著者はその観点から、現在の中国のナショナリズムを分析する。民衆は、ナショナルなものに囲まれ、そこで幻想形態を育み、みずからをxx人とかにアイデンティファイする。国家が上昇流に乗っているとき、民衆はxx人であることに自然と誇りをもち、それに対して不当と思われる仕打ちを受けると過敏に/時としては過激に反応する。日比谷焼き討ちの日本人も、靖国に反対して、上海の日本国総領事館を焼き討ちした中国人。どちらも同じ構造である。そして、暴動に走った人間が、実は本質的に無教養で国家的利益を損なっているところまで同様だと著者は見抜く。
そして、一般に日本人は中国のマスメディアが中国当局の抑圧を受けているので、何にせよ報道がプロパガンダであると思うような誤解があるが、実は、中産階級の成長とともにこの層が求めるもの〜自由〜に応える新聞群がある。勿論、モロの当局批判は出来ない制約の下で、読者の求めるものを書く。それが、過激な反日だったりする。「反日無罪」。しかし、それは、中国共産党中央レベルが“書いて欲しい”ものとは逆だったりするのだが。中央レベルでは、日中関係を良くすることが国家レベルの利益だと分かっているが、それを口実に「指導」すれば、言論抑圧だという反撃が可能な程度、自由化しているということだろう。
また、同時に、著者は中国の中流階級および知識人一般にも容赦ない。魯迅が言う「人を食う中国人」、毛沢東がイラついた、「徹底的に自分のことしか考えない知識人」という、恵まれた位置にいる中国人に見られる反市民的な姿勢を。学生主導の天安門事件敗北も、ウアルカイシやサイレイらのこの姿勢にあると、今となっては思う。彼らは労農民衆の根本利益ではなく、自分たちの自由に閉じていたから負けた、とした日本共産党(左派)の分析は、感情的には納得できないが、かなり正しかったと認めざるを得ない。(←これは、全くの個人的事情で書く。)
そしてこれが、子供じみた「反日」の一つの根拠であったりする。しかし、同時に、子供が成長するときに自国の領土が大きければ何となく嬉しがる(WW2中の日本の領土を示したら、幼児が喜ぶような)のと同じで、中国人が市民となる一過程とみなすべきと、反日を批判する日本人にも釘を刺す。なぜならば、日本人も通った道だからだ。ただ、個人的には、オルテガの大衆
批判を受け入れているので、著者ほど楽観的にはなれないのだが。日本において、優秀なエンジニアが、政治的には子供じみたことを言うのはよくある話だからだ。また、中国自身も、毛沢東は中産階級〜知識人への苛立ちから、文化大革命を発動したが、それでも中国人は変わらなかったという事実がある。中国人のミーイズムは、果たして克服可能なのか。
そんな状況だが、著者はマルクス主義者らしく「意識が存在を決めるのではなく、存在が意識を規定する」ので、予測される中国の経済成長により、ナショナリズムは長期的には終息すると楽観的である。アメリカ一極支配の終了が見えてきた今、中国はインドなどと多面的な外交をはじめていることを指摘する。中国内格差も、是正の方向に向かっていることを指摘する。物質的基礎は、よりよくなる、正確には「ヨリ悪いことから、マシな悪」に向かっていることを指摘し、コトを中国に閉じずに、アジアから世界という視点でもって、本を終わる。宗教という新たな分断要素が世界を不安定にし出したからだ。ここではアジアでの連帯が鍵となろう。
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(p193〜抜粋)
今回われわれが行なっている歴史的作業とは、こうした「冷戦構造的」な分断とともに、宗教的な対立の分断の克服でもなければならないということになる。インドとパキスタンの宗教的な対立はすでに緩和の方向に動き出しており、東南アジアの地域的な統合は、イスラム、仏教、キリスト教、ヒンズー教のすべてを含むものとなっている。この意味でも、この「東アジア共同体」の実験は巨大な文明史的な意味を持っているのである。
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国際政治は必ずしも、ゼロサムゲームではない。共通の利益を見出せることも多い。ナショナリズムはパンツの下のモノのようなものだ。ないわけではない。だが、むき出しにするのは下品であろう。冷静に、使うべきときに愛情を込めて使うものだ。
また、大西氏のものの考え方が誰かに似ているなあ、と思ったが、これは、キンピー問題を追及するbusayo_dicさんだと気づいたので、トラバをかけてやろうw。中韓でナショナリズムが強まるのは、彼らが国力をつけて自信を回復したからで、そういうの関連の記事に。日本に表立って不快感を表明しない国は、そうじゃないということだ。

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