『ヘルメットをかぶった君に会いたい』(鴻上尚史著、集英社)
自伝的な小説。どこまで本当で、どこから創作か(笑)。読み終わって、やりきれなさを感じた。
著者はTXで深夜よく流れている青春の歌謡シリーズの宣伝で、ヘルメットを被った美女に会いたい、と思う。このヘルメットを被っているのは、「鍵だらけ」「盗聴」なんかで有名なあの党派の女性らしい。著者はこの宣伝を流している会社に連絡を取り、その宣伝を作った制作会社に連絡を取り、ビデオを編集した人に会う。そんなこんなで色々調査していると、「面白半分で人の人生を追求すると、君が廃人になるよ。たたかいはまだ続いているんだから。すぐにやめるんだ」という脅迫を受ける。
そんなことにも結局めげず、著者は突き進む。己の青春時代を振り返りながら。政治に関心はあったが、暴力満ち溢れる世界に転化してしまった左翼業界、飛び込めば自分は確実に死ぬ、と思い、その周辺と思った演劇の世界に飛び込むこと。知人が筑波大学に行ったので、その関係で筑波に出入りしていると、恐るべき管理大学の実態を知り、そしてその空虚を縫って原理が跋扈していたこと。早稲田で原理を追及したとき、原理に対する野次馬大衆の「帰れ!」コールに嫌悪感を覚えたこと。三里塚闘争に衝撃を受け、「頑張れ学生」という思いと「いずれ空港は開港されるんだ」という思いが交錯したこと。しかし、一瞬とは言え大衆の喝采があったこと、そして、左翼党派に辟易としてきたものとして書いておきたいが、
党派を超えて闘いは準備されたこと、それについて大衆が特に喝采したことが書かれている。また、講堂前に演劇用のテントを組んだとき、知略を巡らした話は痛快。既成事実を前に、腹芸を見せた学生部も大人だ。こういう大人がいなくなった大学は、もう、大学じゃあないだろう>当の早稲田とか法政とか。
著者が子供の時、左翼運動は民衆的に盛んで、著者のご両親も日教組におられた。組織率は90%を超えていた。そのことが愛媛県教育委員会というところを刺激し、ご両親は極端なまでの(家から電車3時間、バス3時間、徒歩3時間)配転攻撃に晒される。そのデモの先頭に0歳だった著者は参加する。この攻撃により、組織率は10%を切る。著者は90%とか10%とかのこういう数字は生活の問題だ、と言う。リアルだ。
また、現在については演劇論を教えることを通じて、現代の子の壊れ方を論じる。目隠しをして歩かさせたり、走らせたりすると、平気で早歩きしたり、ダッシュしたりする子がいるらしい。これは、本能が壊れていると。面白い反応(横になったり目隠しを拒否するような)をする子がいたら、妄想たくましくして演劇のネタになるらしい。
また、演劇&学生運動と言えば『リンダ リンダ』。アレの主張の正しさへの信念は本気でも、実践となれば別なのに、それをやろうと元過激派に付きまとわれる話は笑った。表現者の難しさを考えさせられる。共産趣味についても若干触れている。著者は好意的なようだ。
で、例の女性だが、本当に闘いの中に未だいたことが分かる。これはキツい。安田講堂などの出来事は、その当事者も含め、セピア色の彼方、ミネルバの梟が飛び立った時間だと多くの人が思っていた。しかし・・・。続いていた。孤立無援の中。
詳述できないが、対立党派は過去の清算のための苦しみの過程にいるようだ。彼らは彼らなりに時代と対話しようとしている。そうじゃない例の党派は、その本質において旧態依然。凍らせられた時間。歳を取ることさえ許されないのか。
本論はこれくらいにして。
これ、いいよなあ。熊野寮OBの君、ウトロ荘計画を覚えているか?
「日本のどこか、例えば、京都の山奥に、ひっそりとたたずむ病院があるんじゃないかと。病院の周りには、豊かな畑と住居用の宿舎があって、花壇も一年中手入れされているんじゃないかと。その病院では、内ゲバで廃人となったり、半身不随になったり、失明したりした人が治療と生活を続けているんじゃないかと。
親が高齢化したり、亡くなったりして、行き場を失った内ゲバ殺人で傷ついた人達が、党派を超えて、受け入れられる病院があるんじゃないかと。
(略)
この病院は、ただ、自らの意志によって自分の人生を夢に捧げ、理論によって身体をないがしろにされてきた人間達を受け入れるための場所なのだ。」(p279)
共産趣味者の夢でもある。そう。共産趣味者は共産主義に意味と価値を見出す人もいるが、その絶望も見てしまっている。理屈より人間なのだ。なんでこんなことに? なのだ。
もう一つ。
「国家の横暴を阻止するために、それぞれがそれぞれにできる仕事だけをつなぐ組織があったとしたら。
例えば、その昔、指名手配の政治犯を、誰とは知らず、ただ、信頼する人に頼まれたからという理由だけで数日間泊めていた無名の市民の活動のように。
その市民は、党派とも政治活動とも関係はない。ただ、国家に対して、つねに距離を置こうとしているだけだ。「国家と戦う」という考えさえないだろう。ただ、個人の尊厳を国家に踏みつぶされたくないと思っているだけだ。
(略)
持続的な戦いとはそういうものじゃないだろうか。」(p291〜)
そういう“組織”こそ、本当の前衛だろう。持ち場立場の可能性を考えず、ひとしなみにしてきた共産党をはじめとする党派は、必要な意味での「大衆“蔑視”」がなかったから、小生のようなヘタレ勤労大衆に切り結べなかったのではないか、と。

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