『憲法九条を世界遺産に』(太田光・中沢新一著、集英社新書)
世界遺産とは、壊れそうな遺跡や風景を保存するためのものである。だから、この本を書店で見たとき、「世界遺産ということは、この本の著者は憲法9条が脆いものであることを分かっているのだな、気に入った」と思った。著者からして面白いに決まっているだろうし、即座に購入した。
期待以上だった。こんなラディカルな本は滅多にない。右翼も左翼もスルーしていた欺瞞を見据えていた。改憲派も護憲派も読んで損はないだろう。そのラディカルさとは何か?
二人の対談は、宮沢賢治を巡る議論で幕を開ける。太田は言う。「あれほど動物や自然を愛し、命の大切さを語っていた賢治が、なぜ田中智学や石原莞爾のような日蓮主義者たちの思想に傾倒していったのか、そこがわからない」。戦後左翼は、日蓮主義〜国家主義者としての賢治をスルーした。しかし、宗教学者中沢にかかれば、こうなる。人間と動物という、本来ディスコミュニケーションが当たり前の世界で、賢治はコミュニケートする世界を描いた。そして、本気でコミュニケートを欲する彼は、この世の悲しい実相に悩み、共通=単一の価値体系である宗教にのめりこんだ。その理想主義が、田中智学に共感させたと。「命の大切さ」を説く思想も、国家主義に共感する思想も同根なのだ。そこには宗教的ファナティックがある。戦前は八紘一宇で現われたが、戦後の象徴は憲法九条である! メンタリティーは同じ。一言で言って、それは愛なのだ。だが、愛は憎しみと同根、危険なものでもある。そこをえぐった本書がラディカルでなくて、何なのだ?
ここで中沢は貨幣論に移る。所有〜贈与は、かつては愛(憎)と結びついていた。だが、その濃密さはうざったい。人間は、市場を作ることで愛を離した。愛を怖れたのだ。流通手段として貨幣が生まれた。「資本主義に愛がないのは当然なんです。愛を恐れたんだから」(p40)。
そこに生まれるのは疎外である。人間は、その極致に耐えられない。愛と格闘する哲学・思想が生まれる。そこから民族古層の噴出としてのナチズム、個人的愛が塞き止められて静かな発狂に彩られたスターリンが生まれた(ハットンの著書を読んでの小生の感想)。とにかく、愛(憎)は危険なのだ。だが、それなしでは済まされないのだ。
大東亜解放〜八紘一宇の精神はアメリカ帝国主義によって塞き止められた。戦争への反省が日本を覆った。そこにアメリカ帝国主義は彼らの理想主義を振りまいた。それが九条である。日本人はその理想を良しとした。九条には、白人によって滅ぼされたアメリカ先住民の知恵が含まれている。アメリカ白人は歴史的に、彼らに原罪を負っており、だから自由とか民主主義とかのフェティッシュを広げるように突き動かされる。どう考えても国家否定の論理である九条。それを是とした日本人。押し付けをありがたく頂いた日本人。異常なことである。
だが、世界37ヵ国(だったっけ?)に同時に戦争を仕掛けた日本人、狂気の日本人、そのメンタリティーが異常を引き受けた。歴史の奇跡である。誰が見ても無茶な憲法。“日本国憲法の文言をそのまま守っていると、現実の国際政治はとてもやっていけないよ、というのは本当です。北朝鮮が日本人を拉致した。こんな国家的暴力にどう対処するんだと憲法に問いかけても、憲法は沈黙するばかりです。”(p79)
だが、そこには神々しさが宿る。憲法の中に僧院があってもあってもいいじゃないか。九条という聖なる狂気、これを失うことは、八紘一宇に連なる日本の狂気の否定であり、それは日本人を殺すことではないか。九条というドン・キホーテのギリギリの緊張感について、解釈改憲派というサンチョ・パンサがいてこその日本。それでいいのではないか、と二人は言う。
太田は、牙を隠す日本を桜に喩える。桜は死を意識させる花だ。何が死ぬかが問題だ。九条は日本の精神性の一つの表れだ。
さて、日本の精神性というと話題になりやすいのは武士道。勿論、尊敬すべき観念だ。だが、そのリアリティーに対する危うさは混ぜっ返しの対象でもあり続けた。武士道は大事だ。だが、それに対する「批判」「揶揄」は同じくらい大事だ。九条もそういう位置で弄られるべきかも知れない。なぜならば、「死ぬこととみつけたり」の武士道にこそ、九条は相応しいからだ。それは、理想の限界を明らかにし、猪突猛進〜破滅を防ぐことになるだろう。
さて、そんな面白く、日本の狂気の象徴とも言える九条。だが、狂気には犠牲が考えられる。ケツをどこに持っていくか、あるいは持っていかざるを得ないか。大東亜戦争がそうであったように、その精神性で民族を滅ぼすかも知れない。だから、二人は「絶対に守れ」とは言えない。太田は迷うことが大事と言う。中沢はこの矛盾と曖昧さが、天皇制と親和性があると言う。天皇制も時代と共に変化してきたがゆえに、伝わってきた。
九条をどうするか。変えるにせよ、守るにせよ、覚悟が要る話だ。護憲派は憲法を変えれば戦争に巻き込まれるという。だが、歴史を見れば、憲法のあり方なんか関係なく、巻き込まれるときは巻き込まれるのだ。それでもなお、九条を守る覚悟があるのか。また、改憲派について。自己責任という言葉があるが、国民一人(香田君)守れずにイラクで殺されるままにして何の国防か。今の改憲・護憲のメインストリームについて二人は鋭く覚悟のなさを指摘する。もう、臭いもの蓋的な態度・物事を正面から見ない態度は止め、覚悟を深めよと。戦争画家・藤田嗣治を正面から見ろ、と。ジジェクがレーニンを語る(埋葬されてしまったものを復活させる;p156)ように、あの時代を見つめろ、と。アレは断裂だけではなく、現在との、現在の平和主義との連続の上にあるんだから。
最後に中沢のコメント。神話は他者(動物に象徴される)とのディスコミュニケーションを思考によって乗り越えようとした。他者への免疫を否定する回路(母体が胎児を否定しないように)をかつて人類は持っていたが、文明はそれを否定していった。そのドンツキにあって、深エコロジー的な思想として、国家否定の原理として、尋常ならざる神話的論理を日本国憲法は内包した。
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小生はレーニン流に言えば「泥を這う現実主義」から今は護憲に組している、“本当は改憲派”だ。だが、この本に示されたように、憲法九条は日本的精神〜狂気に支えられた、魂のコトであることは踏まえておきたいと思う。

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