『反西洋思想』(I・ブルマ、A・マルガリート)
オリエンタリズムは、サイードがテーマとした有名な言葉。他者への固定観念、それはしばしば偏見に彩られたものであり、それへの警句が込められている。著者らは西欧への偏見、それについてオクシデンタリズムという言葉を当てはめる。そして、それは、西欧的とされるものについての反発が、西欧内部で発生した歴史(例えば、ロマン主義を生んだドイツ)を示し、それが波及/他者に輸入されることで世界に広まったことを指摘する。
西欧の歴史は、それぞれの国(民たち)の神に対して、他の国なり国民なりが「や〜い、や〜い、お前の神様でべそ、すっとこなんきんかぼちゃ」(超意訳)という感じで神の権威=いちじくの葉をひっぺ返すことで世俗化が図られてきた。本書には別にそんなことを書いていないが、それはこの本の前提だ。で、西欧の民にとって神は、殆ど個人的なことに縮退する。そして、ブルジョアの別名たる市民は、そういう状況を快適とする。
さて、西欧はそれによって理性主義や唯物論を産み、近代科学を生む。科学は、圧倒的な生産力、ひいては軍事力を生む。他の社会に対して、圧倒的に優位となる。自分たちのやり方が一番として、帝国主義的に振舞い、他の社会を教化すべく、征服する。勿論、彼らは世俗の力で他を圧倒するのだが、彼らの内面はキリスト教に従っているつもりなのだ。
ここで一つの捩れがある。非西欧では西欧人の俗化は「魂なき者=非・人間」として見えるのだが、西欧人はキリスト教徒であり、彼らは「唯一の人間」なのである。オクシデンタリストは非・人間としての西欧(人)に嫌悪を抱く。それは日本人というアジア人として一言書くと、当然だと思う。日本人が西欧に対する恐怖心を抱いた歴史を振り返るだけで十分だろう。著者らは日本の近代の超克をオクシデンタリズムの一つの例として批判するが、だが、東洋人を人間外と最初に見なしたのは誰か? やったようにやり返されるというのも歴史の一面なのだ。正直、その視点が著者らには不足していると感じた。以上が、大体序章(他の章でも)で触れていることだ。
次に第一章。オクシデンタリズムの形象は、実は西欧起源だ。それは、都市への不安感に遡る。都市=バビロン=売春婦=人間喪失〜共同体喪失。そういう図式。都市は紐帯を破壊し、自由を齎すが、同時に喪失感とルサンチマンを産む。イメージされる人間はユダヤ人。それは昔の
西欧内部でのことでもある。
西欧(人)に触れないものは、西欧を感じることもなく、オクシデンタリズムが発生する余地もない。西欧は力によって他の世界を侵食する。侵食された部分、特にそのインテリや下層官僚に相当する部分は当然のごとく反発する。しかし、反発しても、その力に対抗する術は必要なのだ。日本は文明開化で対抗した。それでも、澱のように、民族としての古層が噴出する。それが、戦前の日本型ファシズムというものであろう。西欧も古層がある。小生は、科学的社会主義というよりも、マルクス主義という言い方が好きだ。なぜならば、マルクスというユダヤ人には、その古層を感じることがあるからだ。そして、それは近代西欧の枠組みを超えるものを提示する。著者らは西欧人なので、そういう感じ方はしないんだろうな。
それはともかく。毛沢東という中国人はマルクス主義を自国民解放の手段(西欧に対抗し、己が後進性を革命する手段)として用いた。彼のインテリ嫌い、西欧嫌いは有名である。プロ文革を見よ。素朴・質実を好むマルクス主義は、一つ間違えるとオクシデンタリストの巣窟になる。
話が脱線した。第二章。オクシデンタリストはロマン主義者である。毛沢東もそうだった。ロマン主義者は、世俗的な終わりなき日常に我慢ならない。タナトス過剰。世俗の価値である(ブルジョア)民主主義を否定せずにはいられない。しかし、本当にそうか? 日本人として、小生は違和感を感じる。ロマン主義がはじめにあるのではなかろう。現実の救済を言う「自由」やら「民主主義」やらが、実は全くの不自由と不平等を齎すからこそ、ロマン主義に行くのではないのか? 特攻隊員が如何に悲惨に型に嵌められたかは言わないが、彼らが最高の知性の持ち主であるにもかかわらず、タナトス過剰の「狂気」を受容し、周りもそれを是とした理由は、とどのつまりは西欧への恐怖だと小生は思う。マルクスの言葉を借りるならば、アヘンやら死せる花は色々な姿をとるものだ。
第三章。ロシアを通じて西洋の心を考える所から始まる。汎スラブ主義による西欧批判。知性や理性ではなく、魂で神を感じろ、と。だが、そういう概念は実は西欧起源であり、また同時に、西欧の古層に深く埋め込まれたものなのだ。西欧=合理主義の衣装の下にある、西欧の魂も見るべきだ。ロシア的犠牲の精神=全てを擲っての自己犠牲 は、クリスタルパレスに住んでいる西欧人も持っているのだ。
第四章。神を通じて、聖と俗の関係から、オクシデンタリズムを紐解く。思うに、聖と俗は絡んでいる。俗なしでは聖は存在し得ず、俗に生きるものとて聖を求める(消費する)。だが、人間の認識は常にマニ教的世界観に誘惑される。聖=善なる己、そうじゃないものには死を! というわけだ。勿論、右の頬を打たれなば のキリスト教も、イスラムもそういうのとは全く違う。問題は本来の教義ではない。本来の教義の反対物になる道筋だ。著者らは、西洋人だから書けない気がする。
終章。ヘルツルの本を挙げ、帝国主義の能天気さを批判。少し救われる。反帝国主義を掲げながら、帝国主義の悪しき側面を逆手に取るオクシデンタリストの根源は帝国主義そのものにあることを明示。第四章の答えか。オクシデンタリズムから眼を背けてはならない、それはその根源にも眼を向けるべきだし、また、日本左翼が北朝鮮問題で口封じをしたようなことをしてはならない、と著者は言う。“回避するべきもう一つの落とし穴は、「植民地主義の罪の意識からくる麻痺」だ。”(P229)その点では、著者は大丈夫だ(苦笑)。で、これはまったく正しい。北朝鮮の惨状を批判することを差別的だ、と批判する左翼は、「オリエンタリスト的な朝鮮蔑視」(P229をもじる)である。要は、お互い対等な人間同士であることから出発せよ、そして認識すべきは認識し、批判すべきは批判するべし、ということだ。日本の左翼の多くには出来ていない態度だ。
著者らの高い知性・理性に対する敬意をもったが、最終章の結論めいたところに辿りつくまでは、薄皮一枚隔たった異物を感じ、正直、全面的な共感を得ることが出来なかった。正直に言えば、読み進める事に嫌悪感を感じた。へそ曲がりな小生は、「七生報告」と叫びたい衝動に駆られた。見も蓋もない感想を書こう。
オクシデンタリズムは西欧帝国主義が生み出した鬼っ子である。
オクシデンタリストが一意的に悪いわけではない。毛主席万歳!万歳!!万々歳!!!(←気分だけで叫んでみる)
この辺のことを乗り越える道は、ないのだろうか。多分、そんなことはない。情念の世界は措くとしても、著者たちの最後の文章は、パンドラの箱の底に残ったものと見てよいのではないだろうか?
“我々に社会を閉ざしている人々に対する防御策として、我々自身が社会を閉ざしてしまうことは適当でない。そうなれば我々までもがオクシデンタリストとなって、守るべきものなど何一つなくなってしまうのだから。”(p231)
もう一つ。日本のオクシデンタリズムについて云々したが、同時に日本はアジアに対してオリエンタリストとして振舞ったことは、読みながら気にもなっていた。両者、人間不在という偏見では同値であり、日本は二つの罪を背負ってしまった。逆に言えば、日本人であるということは両方の心情、両方の陥穽が認識可能ということだ。

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