『ウェブ人間論』(梅田望夫・平野啓一郎著、新潮新書)
ウェブの世界に生きる人間=梅田望夫とウェブを利用する作家=平野啓一郎の対談をまとめたもの。ウェブに分身を放つ感覚がある梅田氏と、ウェブの限界を感じる作家という異なる立場の二人が、鬩ぎ合い=せり上がりという弁証法を感じさせる対話を行っている部分が面白い。それは主に、ネットによって人間と社会がどう変わるか、という点にある。身も蓋もないことを言えば、それは未来にならなければ分からない。人間なんて矛盾の塊で、ある方向に流れが来れば、それにドッと流れるものであり、それはその時点にならなければ分からないからだ。ただ、鬩ぎ合いの中からありうべき未来の数々を提示しているところは、実りある誠実な対話だったことを示している。
【第一章】
さて。20年前にはなかったインターネット。その中では時間軸は複数あると思う。秒単位のレスポンスが必要なとき。これはブログ以前にも掲示板などであった。分身がネットにいる感じだ。また、安価(無料)に記述物が残るという点では、10年前に作られたサイトを重宝することもある。これは、ネットの外の自分が「読む」という感じであり、本の延長だ(Web 1.0か?)。さて、どちらも今やgoogleに統べられる状況。検索マシンの能力が、いわゆるWeb 2.0を規定している。これに上位に捉えられること、そのためには濃い情報を発信できること。または、受け止める能力を持つこと。これは、従来の「ある程度は広く浅く」の必要性を減じるものだと思う。今の子は、昔の子に比べて学力総体は低いかも知れないが、チームワークをOKにしたら、昔の子よりも凄いというのは、時代が生んだ現象だろう。ゆとり教育の弊害を克服する能力は育っているだろう。
検索システムの現状で凄いところは、情報の提示に留まらず、それを解析・取捨選択して相手の欲望に沿った提示を行う(宣伝する)ことだ。自分の欲望に関連するものがドンドン押し寄せる。そういう時代だ。
さて、ネットと言えばかつては英語サイトを巡る能力がないと、今一役に立たなかった。今では日本語サイトもかなり充実していて、小生の場合それに閉じた行為になりつつある。少なくとも、プライベートで利用するときは。英語やフランス語も同様で、言語圏というものが文化圏を形成するのだろう。ならば、その壁=圏を越えるのに、自動翻訳が期待されるが、まあ、かなり先の話だろう。平野さんの言うように、「検索しやすい言葉」を使う次世代と言っても、それは相手の言葉を深く知ったものがいないと、そしてその知識が広く共有されないと無理なんじゃないかなあ。
ブログは基本的に自分語りでいいと思う。本を書くとか、そういうのはやはり構えてしまう。多くのブログは、心の揺らぎまで感じられるところがいい。それが整理され、次に書くときはレベルアップしていることが多い。また、すぐにレスがつくことも、レベルアップを促進する。読む方としては、ほぉ〜、こんな考えもあるんだな〜 と感心することが多い。だけど、多くの場合は大衆には受けない=商業ベースに乗らないだろうな。そういうのがネットでフローするところがいい(ブログに限らないか?)。
情報の序列化については、極端が上位に来るほうが面白いと思う。出版業じゃないんだから。
リンクされた脳、というのは、昔からあるネット世界の発想である。それが、常識化しているのは嬉しい。オープンソースという発想こそが、ネットなのだ。
【第二章】
匿名性について。日本社会では、特に大企業では、実名で社員が語ることは掟として禁じられている。左右関係なしに、だ。これを大前提として書いておこう。だから、これまで通り、これからも一部の実名公開可能な方、あるいはその必要がある方以外は、実名文化は日本では根付かないだろう。ただ、ネットを利用してリアルであれこれ蠢いている集団(大坂仰山党)の掲示板管理人としては、ネットを出たとき、匿名を採らない人たちもいることは書いておこう。その場合はその集団の掟が優先する。また、その動きおよび、ネットでの意見表明で、匿名が実質形骸化することも多い。
小生が時折触れる、「マルクスよりもアレント」というのは、日本企業社会の掟が、日本の民主主義を窒息させていると常々考えているからだ。2ちゃんねるは日本社会に
絶対に必要だ。正確には、ある方がいい。
勿論、平野さんのおっしゃるとおり、2ちゃんねるで何が起きようと、多くの場合は残酷でシニカルな現実支配するエスタブリッシュメントにとっては蛙の面にションベンだ。だが、書かれているという事実でもって安心し、仲間意識を感じるところから日本社会ははじめなくてはならないと小生は考える。認識なくして、行動なし。超出は、空しい足掻きの上に成り立つのだろう。
(西遊妖猿伝をご存知の方は、わかるかな?)
顔ナシは、実存する個人の究極の要望というよりも、そういうところにカタに嵌められている現実があるからだ、というふうに小生は考える。それでも、個人的な話、"TAMO2"というHNが有名になったから、色々跳ね返ってくる。ある線を越えると、匿名性は毀損される。その上でも、2ちゃんねるは有効なメディアなのだ。(ついでに書くと、今日も小生に関する大嘘が2ちゃんねるで書き殴られている。基本的には放置するのが一番だ。結局、大衆は極端な馬鹿は馬鹿と見抜くものだ。)
オープンソースを上手く使って儲ける奴がいてもいい。掟破りの囲い込みさえしなければ。資本主義の原蓄積に関するようなお話。
検索で上位に来ないと無視されるというのは面白い。また、梅田さんの本の題名の決め方はパテントマップの主な使い方と一緒だ。
【第三章】
著作権は、やわらかく考えたほうが皆得をする、というのが経験則だが、しかし出版側としてはガチガチにしないと不安なんだろうなあ。それを如何に溶解させるのかが問題だ。この本にあるとおり、狂気に近い信念の持ち主が、突破するしかないのだろう。また、ある程度古くて売れなくなったものは自由に電子化できるようにして欲しいなあ。本と電子文章は、どんなに電子側の表現能力が進んでも別物という感じは残ると小生は思う。購入した本を引用したりするのに、電子ファイルを容易に入手(少なくとも、初版発行後2年とかで)出来るようになれば、非常にありがたい。脱線だが、著作権で一番ギャーギャー言うのが、共産党系出版社であるというのが現状の絶望的なところを示しているなあ。(大月書店は共産党から離れたのでそのかぎりではない。マルエンやレーニンで著作権を言うのも物凄く変な話だ。)
内容のインデックス化、アマゾンの電子データサービス、これはいい。アマゾンが出版流通において勝つのだろうか? 他も真似をするのだろうか?
ところで、一度広告(コマーシャル)付きで放送された内容を、youtubeにアップするのは、本当に著作権違反になるのだろうか?? 短い時間なら、逆に番組宣伝になっている気がする。
そのうち若い日とは本やCDなどを持たなくなるとか。いいなあ。持たなくても良いようになる、なら。日本の家は狭いので、多くは置けないからだ。今のところ、そこまで物質へのフェティシズムから小生は解放されていない。ここでも著作権が次代の桎梏。
著作権の大幅な見直しが必要だろう。
【第四章】
逃げることが容易な社会になるのは、多分暮らし易さを広げるだろう。本の有効性は多分、失われないだろう。小生は、ネットをやりはじめてから、読書量が物凄く増えたと思う。教養に関して。以前よりも浅くとも広い教養が求められると同時に、己の専門については恐ろしい深さを求められるようになるだろうなあ。ネットを利用すれば、両者とも容易になろう。
現実への働きかけ〜変革については、広い教養が広く行き渡らなければ、「新たなる大きな物語」にコロッと逝かれる危険は確かにある。だがカウンターも、ネットでは流通し易い。鬩ぎ合いの速度が高まろう。
今までもそうだったのだが、ネット社会ではヨリ以上に島宇宙の重なり合いという世の中の実相がハッキリするだろう。

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