http://8717.teacup.com/onibara2/bbs
より。
歴史の再審:ロシア革命 投稿者:*鬼薔薇 投稿日: 3月23日(金)21時20分56秒
昨夜のBSニュース特集が、今ロシアで進んでいる「二月革命」の見直しを報じておりました。ちょうど[読書室]のほうで『帝国主義論』最終章の解読を進めていて、「二月革命」勃発前後のレーニンの認識を考えていたところなので注目して視たのですが、「90周年」という以上に事はかなり生臭い話のようでございます。紹介された現地のテレビ番組のひとつがロシア語ではなく英語だったのにもおやまと思いましたが、その“歴史の再審”が政府主導で、ソルジェニツィンの未発表論文が規準というのも驚きでした。
紹介によれば、政府系新聞に全文掲載されたソルジェニツィン論文の基調は、「二月革命」後のケレンスキーの臨時政府が優柔不断で指導力に欠けていたことが、その後の混乱とボルシェビキのクーデタ(「十月革命」は今のロシアでは、もっぱらクーデタと評されているのだとか)を許したので、とにかく政府は強力でなければならないとの「教訓」を導き出しているとか。来年の大統領選を前にしたプーチン政権の権力移行準備として、国家権力の統制力を強化しようという政治意図がミエミエという感じではございます。
レーニンとボルシェビキが敵国ドイツの支援を受けていたというのがもうひとつの機軸認識で、そのことから、外国の支援を受けた反政府勢力に対して特別の警戒を呼びかけているとか。これはチェチェン紛争とムスリムのことかと思ったら、そうではなく、プーチン政権に追放されたかつての大企業のことらしいのですね。どうもわたしなどは、ソ連崩壊以後のロシアの権力構造について、特にその「資本主義復活」から生れた利権構造の政治について、認識不足もはなはだしいことを痛感させられました。
ロシアは日本の隣国のひとつ。大黒屋幸太夫ら幕末期以来の日露関係史を振り返る視点と、現代ロシア認識と、ふたつを重ね合わせながら「ロシア革命」を「歴史」として定位することが必要なのだとあらためて思います。
そういえば、知人が借してくれた邦訳『レーニン全集』の関係巻が出たのが1957年、ちょうど50年前ですから、ロシア革命から今日までの中間点より以前の本というわけですね。宇高基輔訳・岩波文庫版『帝国主義論』の初刷りがその前年の1956年、原著執筆からちょうど40年後の出版で、それから今日まで51年が過ぎております。ちょっと持て余すような歴史の時間ではございます。それにしても、現代ロシアに生きている人たちにとって、彼の国の社会はどのように意識されているのでしょう。帝政ロシア末期を生きたネクラーソフの一大叙事詩『ロシアは誰に住みよいか』も、岩波文庫で健在ですね。
現在に話を戻しますと、今朝の日経は、板ガラスの最大手メーカー旭硝子が、モスクワ郊外にあるグループ会社の生産拠点に、既存の3基に加えて新たに4基目の大型ガラス窯を新造し、生産能力を6割も増やす計画と報じております。サハリンのガス田開発をめぐる対立にもかかわらず、ロシア経済の成長を背景に日本企業の現地進出が加速している昨今のようでございます。
------
歴史の再審:ロシア革命・続 投稿者:*鬼薔薇 投稿日: 3月24日(土)09時50分56秒 編集済
「ボルシェビキ=ドイツのスパイ」説は、レーニンらの帰国後ロシアで広められたスキャンダルだったこと周知のところで、その後も「秘史」「裏面史」の類のなかによく扱われるテーマのひとつではございます。革命後のロシア人亡命者が多くいた西ヨーロッパではもっと詳細な「研究」も固有の歴史を刻んできたらしいこと、故・中野重治氏も『レーニン 素人の読み方』でオランダで出た書物を取り上げておりました。
「ボルシェビキ=ドイツのスパイ」説には、とりあえずふたつの根拠があったことでしょう。まず事実関係では、レーニンらが、交戦国ドイツの仕立てた例の「封印列車」でロシアへ帰ったこと。この有名な「封印列車」の実相について、ロバート・サーヴィスの評伝『レーニン』(河合秀和訳・岩波書店)が詳細な描写を与えております。
《三二人の旅行者が乗車することになるが、レーニンとジノヴィエフは、全員がそれぞれ自分の旅費を払い、ドイツからの補助は認めないと定めた。乗客はボルシェビキに限られてはいなかった。例えばユダヤ人ブントの女性指導者も、彼女の四歳の息子ロベルトとともに乗客として歓迎された。
……(中略)……
二人のドイツ人将校は、客席の後部の「ドイツ」領と「ロシア」領を区分するチョークの線の向う側にいるように指示された。客車の三つのドアには封印がほどこされたが、ドイツ軍将校の寝室のコンパートメントに接している四つ目のドアには旋錠されなかった。したがって乗客たちは、旅行中、外の世界から本当は隔離されていなかったし、有名な「封印列車」という言葉は間違った命名であった。現実にロシア人乗客は、列車に乗り合わせてきた人々に話しかけている。プラッテンがフランクフルト駅でビールと新聞を買いに列車を降り、何人かのドイツ兵に買物の荷物を列車に載せてくれと頼んだ時には、実際に彼らに話しかけることになった。いく人かの鉄道員も兵士に加わったが、抑えのきかないラデックは彼らにドイツ語で革命を起こすよう教唆扇動して、上機嫌であった》(邦訳下巻、p.15-16)。
この陽気なラデックらの喫煙対策とそれに伴うトイレ騒動、それに対するレーニンの「統制経済」的対処などユーモラスな旅中エピソードについては、上記書でご覧くださいませ。
第二に政策論としては、ボルシェビキが掲げていた「革命的祖国敗北主義」というスローガン。国と国との戦争の真っ最中に「自国の敗北」を唱える革命集団が「敵国の手先」とみなされるのは、さして不思議なことではございません。
もっとも、レーニンが頑固に掲げ続けた「自国の敗北」という主張は公然たる党派的主張でしたから、秘密を要する「スパイ」に似つかわしいものとは申せませんが、「敵の敵は味方」という単純明快な政治力学の世界では、ロシア帝国の「敵」にとってボルシェビキと限らず革命派が利用の対象だったことは疑いなく、大日本帝国にとっても、たとえば明石大二郎の故事がございますし、国家による政治利用とは別に、圧制と闘う「露国過激派」に対する同情も欧米の各地にさまざまに芽生えておりました。明石大二郎の場合にもそうしたモメントが働いていたことを想定する説も少なくございません。
これとは別に、レーニンがドイツ側と秘密の接触をもっていたことをサーヴィスが紹介しております。
《初めそれは、ドイツの捕虜収容所にいるボルシェヴィキに政治文献を送るという形で行われた。捕虜の中でも大物だったのは、他ならぬロマーン・マリノフスキーで、彼はロシア帝国陸軍に召集され、ドイツ軍に捕らわれていたのである。マリノフスキーがオフラーナ〔ロシアの秘密警察〕のために働いていたということをレーニンは信じておらず、マリノフスキーにロシア人捕虜の間で講演をさせて、ボルシェヴィキの宣伝を広めようとした。レーニンがロシアの敗北を唱えていたために、ドイツ参謀本部はかえってそれを援助した。ベルン駐在のドイツ公使、ギスバート・フォン・ロムベルク男爵は、エストニアの民族主義者アレクサンドル・ケスクラを介してレーニンの活動を知らされていた。ドイツ側のもう一人の助言者はアレクサンダー・ヘルファンド−パルヴスであった。…パルヴスはドイツ社会民主党を左翼の側から批判しているドイツ人であった。彼は金持ちの実業家でもあり、スカンディナヴィア諸国、バルカン半島、トルコなどで怪しげな取引をしながらドイツ政府のための使い走りもやっていた。…レーニンが直接にケスクラとパルヴスに会うことはあまりなかったが、ドイツ側が結果的にボルシェヴィキに資金を融通していたことを示す強力な証拠がある》(前同上巻、p.331)。
この「強力な証拠」はなぜか明示されておりませんが、「二月革命」勃発直後にレーニンは、「捕虜となってくるしんでいる同志たちへ」という檄文を書いております。それが一般的なアジテーションではなく、上にある文献送付の事業という裏付けあってのものだった事情について、『全集』第23巻巻末の事項註に手短な説明がございます。
「一九一五年にボリシェヴィキは、捕虜救済委員会をベルンにつくった。この委員会は、ドイツの収容所にいたロシアの捕虜と連絡をつけ、そのあいだで活動を組織する点で、大きな活動を行った。広範な手紙がやりとりされ、非合法のボリシェヴィキ的文献が送付された」。
娑婆では非合法の文献が捕虜収容所では読めるというこの支援事業が、実は上のようなドイツとの秘密接触に支えられていたわけで、これは厳重に秘匿しておかねば自身の政治生命に関わる問題だったこと、サーヴィスの指摘どおりでございましょう。まことに「革命政治」もまた「政治」にちがいなく、政治に付き物の表もあれば裏もあり、「スパイ」なるものの一般像などとうてい語りえぬダイナミズムのなかで幾重にも捩れながら運動していくものなのだろうと思います。そうした捩れながらの運動に身を晒す心理的圧力に耐え得てこそ「革命政治家」なので、それだけの堅固な意志力と自己統制力がないのなら革命政治などに手を染めてはいけないのでしょうね。わたしなど、花冷えの夜に熱いお茶をすすりながら伝記本でも読んでいるのが身分相応でございます(笑)。

0