今日は11月7日。鐘が鳴れば我先に我らは突き進む・・・とか口ずさんでみたくなる日だ。
(この歌だ;原題は「トロツキー赤軍の歌」)
http://www.youtube.com/watch?v=INIWQI_nX9c
仰山思想というものをつらつら考えるに、題の様なことを叫んでみたくなる。スガさんの本を読み、行き場のない様々な情念・怨念が21世紀の今(68年革命後の時代に)渦巻いていることを再認識させられたから。
全体を意識すること。これがここで言う全体主義である。Totalismusというドイツ語で語られるそうだ。マルクス主義という夢は勿論これに当たる。
しかし、「主義」という言葉、あるいは「全体主義」という言葉のイメージは言うまでもなく悪い。主義とは中毒のことであり、そこから逃れられないドグマである。しかし、仰山思想は「主義」とは参照先以外の何者でもなく、その外部・語られないもの・語りえないものこそ肝要であり、それを浮かび上がらせるためにこそ「主義」は大事だと認識する。
「全体主義」。思い浮かぶのはスターリン主義(マルクス主義)、あるいはファシズム。しかし、これは小生=仰山者の夢想する「全体主義」とは相容れないものである。何故か。彼らは自分ならざるものに対して生権力(政治)を行使し、他人の魂を破壊することで自らを定立させたからだ。他を滅して自分たちだけが全てであるという意味での「全体」。そして、そのような主義としての「全体主義」。そのような「全体主義」は、殺しの倫理でしか全体たりえないであろう。何のことはない、彼らは全体を言う資格がなかったのだ。
小生=仰山者の言う「全体主義」は、様々な成立根拠のあるモノ・コトをまずはあるがままに受け入れざるを得ないことから出発するという意味での「全体主義」である。
勿論、限られた資源しか有しない個人やら組織やらは全体を掴むことは不可能である。よって、「全体主義」は擬制を超えることは本来ないであろう。でも、今の状況を突破するには、そうするしか多分ないのだ。だから、己と違う感性・論理を持つ他人は大事だし、ましてや他者は大事なのだ。
ご参考まで。
http://www.geocities.jp/osaka_multitude_p/gyousanmono_gyousansisou.html
さて、これは一見リベラルの思想に近いだろう。だが、リベラルの持つ偽善性については、ジジェクが散々言っているし、またリベラルとは近いが故に小生=仰山者は差異を明確にしておきたい。
リベラルが可能な地平というものは、小生思うに物質的基礎および精神的生活の基礎がしっかりした情況において成り立ちえる。その世界は第一次近似的に孔子の論語の理想が可能な、あるいは今現在のグローバルを支配するキリスト教的世界の文脈で言えば友愛・博愛の理想が可能な世界である。暴力反対などなどの言葉が実効性を持つ世界。そういう世界のみばかりであれば、某有名人のように「レーニンを左翼というならば、私は左翼と呼ばれたくない」と言うのも可である。
リベラルの限界は最後の言葉に秘められる。今日は11月7日。血まみれニコライ・レーニンの記念日だ。彼は絶対的食糧難の時代にあって農民を餓死させるか、労働者を餓死させるかの選択を迫られた人だ。彼は農民の餓死を選んだ。(それに至る道についてはとりあえず触れない)
リベラルは常に安全な立場からモノを言う。そして、その言説が可能な情況を忘れる。その情況が先人や同時代の人間の血まみれの上にあることをも忘れて。
小生=仰山者は血まみれの歴史に面しないように努力をする、それはリベラルな世界に居心地の良さを感じるからだ、そしてその中でこそ多くの可能性が花開くと信じるからだ。
だが、硬直した制度のみならず、民主主義が必然的に革命という血まみれを要求することを知るものとしては、歴史という残酷なものが自分・あるいは他人・他者の血を要求するとき、それに反対することはないであろう。それは真実の意味で反革命として振る舞うであろうから。リベラルに引きずられた現在の新左翼・旧左翼は今のままでは恐らく、来るべき危機の時代に反革命として振る舞うであろうことは預言しておいて良かろう。
ま、滅び行く左翼のことはともかく(苦笑)、小生=仰山者は全体主義者であるが故に、ジャガナートの車輪の下に多くのものを投げ入れるであろう。その点で1917年2月の偉大なる無力者と異なりたいのである。
しばらくは自称・全体主義者として頑張りたい。小沢留任喜劇の日に記す。

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