第五章はサパティスタの新しさについて。ただ、メキシコを掌握するに到っていないという現実を考えた場合、リゾーム状の運動が現在おかれている可能性の限界について考えざるを得まい。
「もう一つの近代」というのは、かつていまも近代であり続けているものとは異なる何かのこと。つまり、途切れなく進歩していくリニアな歴史というモデルには還元できないような何かのことです。(p134) サパティスタがポストモダン革命と言われる所以。
ヨーロッパ左翼の望みは、第三世界における産業に対して覇権を握るという自分たちの夢の実現にあるが、第三世界主義のディスクールは、こうした連中のディスクールの完全な焼き直しにすぎないのだ。(p137) サパティスタは既存左翼を徹底的に批判する。
サパティスタ運動が目指しているのは、これとは違い、コミュニティを再建する能力を、あるいはむしろ、コミュニティを新たに創出し直す能力を具体的にまとめ上げるということなのです。(p138)
ヘゲモニーというものは、その場その場で構築されるものであって、最初から与えられているものではありません。(p138)
・サパティスタ運動は先進国によるユニラテラリズムからの脱出を目指す。しかしそれはシビアなファロスの世界の中のこと。
サパティスタ運動は武力によって蜂起する試みなのです。(p141)
・コミュニティと言うと「血と大地 by ナチス」を思い出す向きもあろう。しかし、ナチスのそれは利己的なロマン主義で、相手を征服/支配する情念に溢れている。一方、サパティスタは集団的な個体の再建を目指す<共>的な個体によるもので、征服/支配を目指さない。
その場合、清貧概念と愛の概念が背後にある。ちなみに、教会は清貧を個人的美徳に切り縮めた。余談だが、おそらくこの発想がブルジョアジーの貪婪を許したのだろう。
われわれの<生>が複雑になればなるほど、われわれはいっそう愛にあふれた存在になる必要があるのです。(中略)生きながらえることの必要性から、われわれはほかの人を愛し、許容し、あるいはいずれにせよほかの人々の力を利用することになるのです。(p147)
生活様式それ自体が社会の開発的ダイナミクスを決定するようになるということです。(p150)
我々はフォーディズムをすでに脱したわけですが、ポストフォーディズム社会を構築するためのモデルは、いまだに何ももっていません。経営者たちは、孤独を感じながら働いているこうした人々をどうやって利用すればいいか、そして彼らを踏み台にしてどうやってカネを稼げばいいかはよく知っていますが、反対に、どうやって彼らに指示を出せばいいのか、どうやって命令を出せばいいのかを理解していません。(p150) それでも、フォーディズムが貫徹している領域はまだまだ大きいと思う。新たなるものが見えてきた過渡期なんだと思う。
運動はさまざまな特異性たちから構成されるものだということ、そして、主観性それ自体もまた、さまざまな特異性たちからなるひとつの複合体なのであって、ひとつのアイデンティティではないということです。(p153) リゾーム状運動こそが有効な根拠。
左翼はいまだ何もわかっていません。左翼の側での唯一の反応は、できるだけ多くの「人々」(これは彼ら自身が使う言葉です)から支持を得るために右傾化するということでした。(中略)左翼の言うような「人々」なるものが構築されるのは、テレビやお気に入りの新聞雑誌などといったメディアの寄せ集めによってのことであり、あるいはまた、考えられうる限り最悪にくだらない出版物によってのことなのです。(p154)
このような民主主義的コミュニティは、社会党や共産党の活動からは完全に外れたところに生まれるものです。というのも、そうした政党が拠りどころにしているのは、あくまでも議会代表制であって、民主主義的参加ではないからです。(p157) 左翼政党の本末転倒をこれほど見事に突いている文章はないなあ。
左翼にとっての問題はテクノロジーに対する鈍感さではなく、むしろ民主主義に対する鈍感さです。(p161)
第六章の題は刺激的に『なぜ暴力は正当化されるのか――ジェノヴァのデモから考える』。リゾーム状の運動とはどういうものか? ジェノヴァが表現したスタイルはアモルフで決定的ではないが、可能性の一つであろう。
まずマルチチュードをばらばらの状態で出現させ、それからこれを社会的に、そして政治的に再構成するという移行が起きている。(p168) 運動形態の変化について。
ジェノヴァやサパティスタなどの運動は、(中略)権力と同形になることを避ける方向に向かうものです。ブラック・ブロックのように銀行を破壊してみせても、結局のところ、権力への相同化を受け入れてしまうことになってしまう。銀行を破壊する者と銀行をつくる者では、どちらのほうがより罪深いでしょうか。私有化を目論んでいる点では、どちらも変わらないでしょう。(p172) ただ、相同化は<力>の集約という必要性から生まれた戦略であることも考えるべし。マルチチュードの労働の形態の移行により、資本の編制も移行し、それによって闘争形態も移行しているのであって、ブラック・ブロックの闘い方は「時代遅れ」ということではないか。多分、倫理の問題じゃない。
暴力の行使が合法的だと認められるのはあくまでも受け身の立場にある場合に限ると言う人がいるわけです。逆説的なことですが、これはまさに、非暴力だけが合法的な暴力の行使だと言っているのと等しい。(中略)こうした考え方は、理論的にも歴史的にも、道徳的にも政治的にも誤りだと私は思います。(中略)人間どうしの関係が暴力的になりうるのは、人々がそれを望むからではありません。そうではなく、暴力というものが、生まれること、成長すること、死ぬことなどとまったく同様に、ひとつの出来事だからなのです。(中略)私が言いたいのは、ただ単純に、政治的議論から暴力を排除するのはばかげたことであり、食べることも飲むこともできない世界を考えるようなものだということだけです。暴力は、あくまでも人間の現実の一部なのです。(p175〜6) あらゆる暴力に反対することは、現前する暴力、特に権力の暴力を容認することである。それは、以下の言葉に繋がる。
今日、階級関係や社会関係から暴力を抹消しようと望んでいる人たちは、反動主義者か、さもなければ(中略)リヴィジョニストでしかありません。そしてそういう連中は、もはやコミュニズムの再建について語らなくなる。(p178)
・なお、<脱出>という言葉が一つ語られている。嬉しいことだ。そして後衛の必要性についても。ケツ持ちという日本語がある。
第七章の題は『労働はどう変貌するのか――移民問題から考える』。
移民たちが国境を越えるのであれば、その同じ国境がまた、今度は西側諸国のただなかに構築し直されることになるということなのです。(p188)
フォーディズム方式は終わったとはいえ、それはあくまでも商品の生産においてだけの話にすぎません。フォーディズム方式は、社会を組織化するための様式としてはいまもなお依然としてヘゲモニーを握り続けているのです。(p192) この場合のフォーディズムは狭く生産様式内部だけのことではなく、生活様式との関係も含む。いわゆるワープアの問題は、この「終わり」を示している。
・既存組織(例えば、労組)の利益(利権)に縛られて身動きできない左翼を批判する。
同業諸労組は、社会開発の全般的な計画を定めていく際のとてつもない弊害となっているわけですから。しかし左翼は「自分たちに属する」同業諸労組に完全に囚われてしまっている。(p197) この提起は次の言葉に続く。
左翼が取り組むべき問題は、むしろ、生産者の自由な参加を軸として生産を構築し直すためにはどうすればいいのかというものです。生産者は自由と民主主義的能力を有するべきです。移民もまた同じです。(大きく略)
「左翼」とは、生産を新たなかたちで組織化していくその能力のことを謂うのであり、そうでなければ左翼ではないも同然なのです。(p198、大文字はTAMO2の処理。難癖付けが左翼であるかのように思われているもので。本来的な左翼の定義と思う。)
以下はダメ出し。トヨティズム批判、多能工化批判、合理化批判ばっかりやってたサヨクが聞けば卒倒するなあ(苦笑)。
ようするに、どのみちわれわれが認識しなければならないのは、労働の変容に対応する新たな生産様式が現れるとすれば、それは最大限のフレキシビリティとモビリティへと開かれたもの以外ではありえないということです。工場に結びつけるかたちでイメージされた労働力が素晴らしいものに思えたのは、もう三〇年も前の話でしょう。(中略)左翼はこのモデルにしがみついたままなのです。(p200)
また、ガバナンスが民主的に行われ、行政が正しく機能してくれさえすれば革命政党は不要といいつつ(本当なのか? それを保障するためにもマルチチュードの革命政党は要るんじゃ?)、運動が政治に対する代表権を得つつあることを言う。ラテンアメリカを例示して。しかし、ルーラにせよ、チャベスにせよ、政党を背後に持っているんだが。生産様式の新たな構成については、率直に試行錯誤中であり、可能性について触れるのみ。あ、運動の世界大のありようについて。
今日の運動はもはやインターナショナリズム的なものではなく、むしろ、グローバリズム的あるいはコスモポリタン的なものであり、ネーションや国家や大陸といった枠組みを横断するものとなっている。(p211) 植物細胞的な固い殻を前提としてイメージさせるインターナショナリズムから、その殻が溶解しつつあるような世界への変化。
次が最後。この一文だけでも、労働運動に携わる人は読んで欲しい。
おそらく、伝統的な労働者運動組織に歩み寄らなかった運動だけが、このような危機あるいは破綻のただなかにあっても、さまざまなところに着実に根を下ろしつつ、大陸的かつグローバルな規模で活動を展開していくだけの力をもったものとなるでしょう。(p212) 既存労働組合は殆ど、カウツキー的、後継者的制約で身動き取れないのだ。
(下巻へと続く)

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