『国家論』(佐藤優著、NHK出版)
著者は一部で国家主義者と批判されている。国家の必要性(必要悪)を言うだけで国家主義者ならば、国家と革命のレーニンも国家主義者であろう。国家権力の暴走の被害を受けた著者は、国家のさらなる暴走を危惧してこの本を上梓した。その点において、著者を世間的な意味での国家主義者と言うわけにはいかない。
しかし同時に、どうしても、休職中の外務省官僚の立場から、憂国の情、それも、「国家としての国」への憂国の情が滲み出ていて切ない。
結論から書くと、国家の暴走にブレーキをかけるには、社会を強めるしかない。しかし、小生思うに、社会にかつては遍在していたであろう――例えば、宮崎学の一連の書物、あるいは左右のダイナミズムに満ちた動き――<力>が、センゴミンシュシュギの中で牙を抜かれ、脱臼され、無化された中で、どのようにして可能なのだろうか。著者は人の繋がりを言うし、それに大枠で同意するも、同時に繋がりを担保するものの再構築からはじめなければならない現状を鑑みるに、道遠しの感が否めない。「親切な機械」「思想・運動夢の島事業団」である大坂仰山党がこの難題に寄与できれば幸いである。
さて、本の内容について。著者は国家と社会の不可分性について、主として資本論を援用して論じる。ここで主として論じられるのは国民国家だ。それは資本主義と不可分であった。エンクロージャーがプロレタリアートとブルジョアジーを産み、労働力の消費によって資本蓄積が可能となり、資本主義を生み出した。資本主義は階級対立を伴い、上部に立つものを要した。それが国家である。資本にとって、本来国家は外部なのだ。
で、何故、国家はエラそーに社会の外部なのに上に立てるように見えるのか。宇野経済学、あるいは柄谷の仕事を援用して論じる。階級対立を放置すると社会が爆砕=革命で覆される。ならば、ブルジョアジーは共同でこの爆砕を防ぐべく、機関を作り、自らも含めて(ノージックらの理論を見るべし)、国家による収奪を容認する。いや、必要とする。そして、再分配をする。このようにして、爆砕を防ぐのだ。
革命家が本質を見抜き、アジったところで、コトは簡単に革命へと至らない。国家機関のことである政治革命は、やはり社会の外部のことなのだ。勿論、繋がってはいるのだが。自動的に革命が起きるわけではない。この点で、レーニン(主体的能動論、特に革命家の)と宇野の認識は一見奇妙に見えるだろうが一致していると思う。
さて、国家について。国民国家という幻想形態が近代を支配した。国家同様、実は国民も作られるのだ。この極端な例が、スターリン民族政策によって示される。「俺はイスラムだ」と言い、民族なぞ意識していなかった人々が、ソ連の政策により、上から作られた「民族」を意識することにより、ソ連崩壊後他の「民族」と戦争をすることなど。近代国民国家は血なくしては成立しない、酷く傷ついた存在なのだ。
国民=国家の幻想をナショナリズムと言ってもいいだろう。著者は否定神学の論理で斬っていき、殆どの幻想(通説)がまさに幻想にすぎないことを示す。最後に残るのは、ゲルナーの言う「ナショナリズムとは特殊な時代の愛郷主義である」。
愛郷。抗いがたい魅力。その幻想を最大限に利用できる仕組みは言うまでもなく民主主義である。民主主義の本質は、官僚の描いた絵を、自分たちで描いたかのように庶民に錯覚させるところにある。皮肉なことに、これはブルジョア民主主義と言おうが、プロレタリア民主主義と言おうが、労働党・共産党が「経営者になりたい人たち」(by ネグリ)という現実があるので、妥当な指摘であろう。
だが、彼ら官僚とて、社会の論理である資本の論理を突破することは容易には出来ない。だが、自らの利益を欺瞞的に貫徹する(しているように見せかける)ため、ポピュリズムであるボナパリズムを利用する。小泉人気はそういうものとしてあった。(ファシズムはもう少し頭を使う。)
かようにして、資本、国家、民族(ネーション)の環は不可分に繋がる。これを超えるには、外部が必要だ。レーニン! 失礼。ジジェクなら『レーニンを繰り返す』。だけど、これはちょっとはやらない。ネグリのマルチチュード。未了だが、巷間言われていることを聞くならば、最弱の環かも知れない(爆)。燎原の火花かも知れないが。いずれにせよ、今は弱い。著者と柄谷の言う「国家を強めることに帰着する」は言いすぎかもね。とりあえず、社会を強めること。
さて、著者のクリスチャンとしての思い入れが炸裂するのが、第四章 国家と神。近代を乗り越えたと言われるカール・バルトー。著者はバルトーについて近代を完成させたという。そして、ポス・モダの戯れは近代の論理に帰着可能という。小生は、ポスモダの議論は帰着した所で激しく近代を揺さぶっていると思う。まあ、それはともかく。
従来の聖書理解では、黙示録は国家と距離を置け、とアジっているらしい。原始キリスト教を想像するに、それは分かり易い話だ。で、老舗宗教なので、一見逆のことも書かれている。それがローマ書だ。
人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神に寄って立てられたものだからです。(p231;ローマの信徒への手紙)。何て反動的なんだ! だが、バルトはこれをひっくり返す。
すべての人はそのつど支配している権威に従うべきである。というのは、神によらない権威はなく、そのつど現存する権威は神によって制定されているからである。(p233)
「そのつど現存する」ということで、「全ての」から権威を切り離し、己が<従うべき権威>の可能性を開く。それは、神と直接触れようとする意志と繋がることで、革命への血路を拓く。この観点から、バルトーはロシア革命を赤い兄弟として支持する。しかし、それは革命的巨人主義とでも言うべきもので、たいそう危険なのだ。反動的人間よりも。彼らは愛に満ちている。しかし、人の愛は大きければ大きいほど、大きな悪にまみれるのだ。
また愛に満ちた人間は「正しい社会」を渇望する。幸いなるかな、義に飢え乾く人、彼らは満たされるであろう。だが、「正しい」という発想には排除の論理が入る危険がある。ここでも、義人は悪に負かされるのだ。左翼と付き合って嫌と言うほど分かった話(苦笑)。
また、マルクス主義はヒューマニズム、プロテスタンティズムはアンチ・ヒューマニズム。ヒューマニズムのほうが地獄を産んで来た。レーニンについての語りが面白い。
本当の革命の根拠とは何かというと、それは人間の側の力ではありません。歴史の巡り合わせのようなかたちで、スポッと向こう側からやって来るチャンスを的確に掴むことです。千年王国の考え方です。(中略)
レーニンはこの意味において、千年王国型の革命のタイミングを掴むことができたわけです。レーニンが革命を作り出したのではない。歴史の中にあった革命のタイミングを、正確に掴み出すことができたのがレーニンなのです。(p244)
一日早くても、一日遅くても!!!
あとも面白いけど、長くなるのでこの辺で。最後はカントの定言命法で理想を語って締めくくる。

0