『ひぐらしのなく頃に 綿流し編』(竜騎士07作、方篠ゆとり画、GWC)
まあ、最後に提示された謎が解けたわけでないので、素の読み方として以下を書く。まずは、やり切れない、やり切れない。キーワードはディスコミュニケーション、差別、カニバリズム(食人)。
主人公圭一が魅音に人形を渡していたら? 普段から家のことなど関係なしに、女の子らしい女の子という本当の姿をさらけ出して魅音が振る舞えたら?? 心の鬼が暴走することもなかっただろう。
鬼の子孫というスティグマを抱える被差別部落=雛見沢村。山間の村が被差別というのはよくある話。平地のメジャーのような意味では生産性が低く、山に糧を求めるため、四足(よつあし)の生き物を殺す。山と言えば熊。古(いにしえ)の日本では熊は神の化身であり、人の仲間。これを食することは、鬼の行為であり、食人と理解されたというメタ設定があるのかもね。
差別というものは恐怖に由来すると小生は考える。食人の伝説を持つ部落の人間について、恐怖なしで済まされるであろうか? 防衛的に、シナあたりからやってきた理念(仏教や儒教など)を持ち出し、それと日本古来に由来すると思われる穢れ思想とドッキングさせて、山間のムラへの差別が生まれたと思う。
他者は不気味な「貌」を持つのだ。全き歓待(by デリダ)は正しいとしても、それはカントの言う「統整的理念」であって、生身の人間が貫徹できるとは限らないのだ。「差別をなくしましょう」と言うだけでは差別は絶対になくならない。
勿論言うことは大事なんだが。人間の本質に属することだからだ。
さて、雛見沢の人間は、そのようなスティグマを貼られ、時としてそれを逆手にとってしたたかに生きてきた。そして、被差別の民に多く見られるように、仲間を大切にし、共に助け合う。少なからぬ人が財をなし、魅音の薗崎家はムラのトップとなる。何かコトがあれば、暴力沙汰という裏の仕事をなし、ムラを守る。ヤクザという「貌」。社会的暴力の行使が可能な家。
次期頭首の魅音は、ただの女の子としては生きてはいけない定めであった。子供の頃から、ダム反対闘争のキーウーマンとして、暴力を行使しなくてはならなかった。そして、社会的暴力を行使できる根拠として、食人伝説という隠蔽された「差別」の物語=地域の人は知っているが、余所者は知らない を維持することが必要であった。この物語を嗅ぎ回る人間を消す定めを持ってしまった。ムラを守るために。
それにしても、自分にとって体の一部とも言える大事な人を5人も殺す、それも「食人」の儀式に則って殺すとは、どういう感じなのだろう。鬼になりきらなくては出来まい。鬼なのは魅音なのか、ムラなのか、ムラにスティグマをつけた社会なのか?? そして、嗅ぎ回った二人はともかく、他の3人は従容として死を受け入れたのだろうか。
……消えた先には お前が喜ぶようなホビーショップがあればいいな。そこには煩わしい一族のしがらみなどなくて 園崎魅音じゃない ただの魅音が楽しく過ごせる場所。きっとそこには梨花ちゃんと沙都子が待ってて、それで毎日3人で部活にあけくれながら 俺とレナが来るのを待ってるんだ。もし… 会えたら 会えたら その時は その時は 今度こそ… この人形を渡すよ(p229) 圭一と一緒に涙した。
それから。遺体が上がったということは、食人はなされていなかったということかと。また、レナちゃんの健気さが、、、もうね、何というか。萌えとしか言いようがない。
最後に。この作品は、部落差別を考える上で良いものを提起していると思う。タブー視してカットしてはならないものだろう、おそらく。解同さんが推薦したら、小生は解同を見直すよ。

2