以下の文章が回ってきた。興味深い文章が一杯ある。筆者は京都の元・共産党員。
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在日三十年 余愚川
今年は、日本の京都に住んで満三十年になる。この五月七日を記念して大学に在学中の長男と、
予備校に行っている長女の二人をつれて食事を共にしながら回顧三十年を語り合い、この若者達の日
本に対し、朝鮮に対する考え方を聞いて一夜を過した記憶がまだ新しい六月二十四日に、中央公論社
より在日半生の生活を通じての思想的自叙といったものを書いてはどうか、との手紙を受けとった。
私にとっては全く意外のことだ。
私の祖父は李朝末期の地方官吏であった。私の父はその時代に漢学を身につけたが、彼が社会に
立とうとした時は、朝鮮は完全に日本の植民地と化していたので彼の学問は社会的に受け入れられな
い状態になっていた。彼は農業も出来なければ、労働者として働く工場もない朝鮮の地方で、かろう
じて普通学校を卒業させた十五歳になる私に、上の学校にやる資力もなければ、他人の小僧にやる気
にもなれなかったのであろう。漫然と放任して二ヵ月の歳月を流したあげく、日本の京都に知人をた
よって行こうとする子供を黙認した。
一 日本に来る
私は初めての汽車に乗り、連絡船にのって、言語も風習も異なる異国の地にやって来た。一緒に
来た何人かの友達が、それぞれ一番近い身寄りを訪ねて居候となった。ところが一人の居候を一日も
受け入れる余裕とてある家庭は、ほとんどなかった。早く働き口をさがすべく、四、五人の友達と歩
きまわっている内に、ゴム靴問屋で働いていた朝鮮の青年に、靴屋の小僧に世話してもらい、日本の
家庭に住み込んだ。
最初の給料が確か四円ほどであった。一年を過しても五円位しか給料が貰えない。早くもうけて
国元へ仕送りをせねばならない家庭状態なのに、こんな収入ではとても間に合わない。そこで洗濯屋
の職人をしている朝鮮の同胞の世話になって洗濯屋の小僧になった。目が廻って倒れるまでこき使わ
れて一年がたち、十五円ほどの給料を貰えるようになった。三年たって三十円ほどの給料がとれるよ
うになったかと思えば、夏場は仕事があるが、冬場になると首を切られる。どうまわっても、もうけ
て仕送りをするどころか一人の生活にも追われる。十八歳になり十九歳になってきて、日本にいる朝
鮮人の共通な不遇に気づき始めた。
一つの民族が他の民族の奴隷状態に落ち入っている。この状態を打ちこわさねば生活の安定はな
い。この状態をブチこわし、朝鮮を独立させねば。そうだ、それにはよく識ることが必要だ。私は学
習の意欲を燃やしたが、職人として働かねば生活出来ない。昼は労働者として、朝六時から夜六、七
時頃まで働き、夜は講義録をとって学習を始めたり、身体をきたえるべく、柔道をならい始めたりし
た。が、いかにがん張っても、仕事そのものが不安定でどうにもならない。まず定着して、夜学へで
も入学せねばと思って、自分で商売を始めた。そして夜間中学に入学した。約半年はつづいたが、ど
うにも両立はしないし、またその内に朝鮮にいた両親や、弟たちまで私を頼って来ていた。二者択一
は、もちろん生活の方であった。どうにか家族が一ところに集まって食膳を囲むようになった。
私が二十四歳になった一月に、父は喉頭ガンで五十七年の生涯を閉じた。母は私の結婚を心配し
はじめたので、私は二十四歳の十二月に帰国して結婚した。朝鮮に帰るには、いちいち、渡航証明が
必要であった。このことを通じて関係官吏は朝鮮人から金品をまき上げ、不当な扱いをした。
このころ私はタクシーの運転業に着目して、自動車の運転免許をとった。
ところが運転手として就職した時は、ガソリンは全然配給にもならなかった。私は木炭の乗合自
動車にのるより仕方がなかった。一つの職業を転換することは容易ならないことであることを、この
時ほど痛感したことはない。自動車の運転免許をとることは、やさしいが、この仕事で飯を食うこと
は大変なことだ。朝四時に起きて食事をすませ、急いで行って、六時までに大阪の職場に着く。古い
車に木炭、終って家に帰ると夜の十一時過ぎになる。
一ヵ月この仕事をつづけていたら、顔に黒いシミが一杯できた。バスからトラック、そしてタク
シーにかわった。夜の祗園では、十二時を過ぎると、軍人と軍関係の商人で、夜通しにぎやかであっ
た。しかも一方では、葉書一枚で若者が生命を捧げている熾烈な戦争のさ中なのに。
不思議なことには、こうした無暴な戦争が、なお、勝利するであろうと信じていた人が、いかに
多かったことか。
二 胃腸疾患
私はこの木炭車で、真夏の暑い盛りに過労から胃腸をこわし、労働不能におちいった、その上、
治療が正しくなかったので、ひどい状態にやせおとろえ、体重は十貫匁までになった(平生は十四、
五貫あった)。病名は胃下垂症であった。人々が良いというあらゆる方法をやってみたが、なかなか
良くならない。ヤイト、ハリ。ヤイトも小さいのから大きいのと、随分色々な所にやってもらった馬
鹿でっかいヤイトが、一番よく効いた。私はその後、進歩的だといわれる人たちに「よくそんな野蛮
なものを」と言われたが、今なお多くの人たちがヤイトによる治療を受けている事実と比較して、考
えさせられる場合が多い。
私の母は私の収入に依存せずに、針仕事をしたり、田舎にいる同胞を訪ねて、食糧と、都会地の
衣類等を交換したりして、自力で生活することを積極的にした。
弟たちの結婚や、朝鮮に帰るには子供たちに頼るだけでは、見込みが立たないと思ったからに違
いない。一九四五年三月に母は帰国した。今から考えると、家族全部の帰国を夢みて、その下準備の
つもりであったのだろう。
三 都市爆撃
この頃より米軍による都市爆撃が、本格的になってきた。大阪の初爆撃で、三人の子供を連れて
女手一つで働いていた姉も、焼け出された。大阪爆撃のラジオニュースを聞きながら一晩中気にして
いた私は、翌早朝、大阪駅に降り、姉の住む市岡を訪ねた。市電は勿論、すべての交通はとだえ、両
側の防空壕には、黒焼けになった死骸があちこちにころがっている中を歩いて行った。家屋という家
屋がみんな焼野原のようになっているので方角が中々わからず、多分この辺りだろうと思われる所を
うろついていると、はたして、ミシンや家財道具を集め、焼けトタンでかぶせ、その囲りを三人の子
供をつれた姉が雨にぬれたニワトリのように立っていた。無事であることの嬉しさ、この悲惨な状態
に対する戦争への憤り、忿懣やるせない胸をおさえて姉を私の家に引き取った。この四月から長男を
小学校に入学させた。子供だけはどんな事があっても、朝鮮に帰り、学校へ入れたかったがどうにも
ならなかった。小さい子供は毎日、頭巾を持って通学していた。これまでの十六年間にわたる日本に
おける私の生活からは、残念ながら日本に対して親しみを感ずることは何一つとしてなかった。
日がたつにつれて憎悪感がつみ重なって行くばかりであった。日本は「一視同仁」とか「天皇の
赤子」とか、有難い二字姓をかぶせて恩にきせようとしたが、これに反して、朝鮮人は反撥を深める
ばかりであった。もちろん一部には喜んで犬になっていた奴がいたことは事実だ。
支配と被支配という関係では、人間的な友情と協力を生むものではない。文政をほこった李朝五
百年は日本を野蛮国扱いして倭国といい、日本人を倭奴と呼んでいた。明治維新政府が、時の李朝政
府に対等国交を申し出たことは、今から考えると、因果応報と言えばそれまでだが。
もっとも近い隣国であり古い歴史的なつながりを持ちながらも、親密に協力し合うことができず
に、戦争は当然の帰結として日本の無条件降伏となった。
四 終戦と朝鮮人連盟
疎開のため、家のとりこわし作業に引き出されていた八月十五日に、日本政府は天皇の言葉を通
じて敗戦を発表した。私は小さい子供に心からの祝福を贈った。あの重い鎖がとかれたのは日本の多
くの労働者や農民の力によるのでなく、二重の苦しみを受けていた私たち朝鮮民族の力によるのでも
なく、連合軍を構成していた、民主主義を人民自らの力で勝ちとっていた連合国の力によってであっ
た。朝鮮全土が間髪を入れずにモンペを脱ぎすて、白い朝鮮服に着かえた。
日本に住む朝鮮人は二百万をはるかにこえていた。関東震災の時の野蛮な襲撃を警戒し解放され
た祖国への憧憬から、取るものも取らず帰国をあらそった。いかに争ってもあのぼう大な人数をはこ
ぶことは出来ない。日本にいる朝鮮人はまず組織を作りはじめた。瞬く間に、全国的な組織ができ上
った。私はようやくひどい衰弱状態を脱していたので、京都朝鮮人連盟結成に参加した。一度もみた
こともない人たちが同胞である一点で、お互いの考えがどうあろうがほとんど問題にされずに、結成
準備に没頭した。あの時の感激は生涯忘れることが出来ない。一つの仕事に向ってお互いが信頼しあ
い、積極的に協力しあうということは、実に楽しいものであり、生きがいを感じさすものだ。集まっ
たすべての人は、善意にみちており、希望にもえていた。
たしか十月十日であったか、京都朝鮮人連盟結成式を行なった。満堂の同胞はすべてて同じ気持
で感涙した。友とだき合って男泣きに泣いている人もいた。本当に朝鮮統一独立が達成されたかのよ
うに。
おばあさんたちが金巾をほどいて心からの協力を、せめてわずかの金銭にでもと申し出る。こう
した人たちが何人も何人もと続く状景を今思うと夢のようである。本部の結成につづいて、方々に支
部が出来る。やがてぽつぽつと問題が出てきた。民族主義者と協和会の幹部たちの間で指導権の争い
がでてきた。鼻息の荒い民族主義者に対し、実力を持っている親日派協和会の幹部は彼らなりに、自
己を守るだけでなく進んで発言権を拡張しようとする。
にわかに出来上った烏合の衆のようなぼう大な組織は、さてどれからどれという方針もなければ
企画もない。帰国を急ぐ同胞の問題でごった返すと思えば、隠匿物質の取り合いに忙殺されていた時
期に、投獄されていた共産主義者たちが釈放された。私はこの人たちこそ本当に日本を愛し、朝鮮と
も友として協力しあえる人のように思えてならなかった。
また朝鮮人も金天海氏をはじめ多くの人がいた。これらの人達は朝鮮人連盟の形式をととのえた
組織に加わってきた。理論的にも、実践においても、比較にならない共産主義者の発言が強化される
とともに反対者が説得されるのでなく、別派に組織を作って対抗が始まってきた。私は寝食を忘れて
、朝鮮人連盟の強化につとめた。特に青年の問題に関心を寄せざるを得なかった。
生活基盤を持たない、殆んどが軍隊か徴用から帰ってきた日本の軍国主義仕込みである青年たち
は、民族感情と新しい朝鮮に対する憧憬以外は何もない。この青年たちを組織し正しい世界観の下に
朝鮮の将来を考え、日本にいる朝鮮人問題を取り上げねばならない。私は青年の教育機関を作ること
を第一の仕事とした。この仕事に特に理解を協力をおしまなかった友人とともに、京都朝連高等学院
なるものを開設した。時を同じくして各地で朝連高等学院が出来た。
五 三・一政治学院
東京に三・一政治学院が開校した。校長に朴恩哲、講師に共産党の中央委員級の人が多かった。
一九四六年六月京都朝連高等学院を信頼する友人に託して、私は三・一政治学院の学生となった
。三ヵ月間合宿制で哲学、経済、社会発展史、組織、戦略戦術、朝鮮共産党史等を主にしたが、時に
はストライキの応援等にも出掛け、全くのスパルタ式であった。特に、ここで学んだ高橋庄治氏の哲
学は私の世界観を決定的にした。あの名講義、あの誠実さ。哲学なんてとうてい私のようなものには
わかるものではないと思っていたが、あんなにわかりやすく、食いつくように吸収していったことを
、今も忘れることが出来ない。私は何一つ、哲学を説明することも出来ない、それにもかかわらず今
もよくわかっているような気がしてならない。
これは講義をした人の哲学に対する理解が非常に豊かであったので、私のような感情を聴講者に
与えたのだと思う。私は高橋氏は哲学を説明しているだけではなく、哲学を本当に自分のものとして
身につけた人だと思う。
私は朝鮮に早く帰ることが出来なくなったことを、かえって幸いだと思うようになった。日本に
は本当に心から信頼でき尊敬できる人物がいることに気がついてきた。五十人に近い人間が、狭い部
屋で三ヵ月間スイトンばかり食べて生活することは、つらいことでもあったが、一面非常に楽しかっ
た。社会科学の最高理論を身につけ、その道で生涯をかけて闘争してきた人たちにじかに接して聴講
できたことは、何よりも大きな収穫であった。
私は再び、京都朝鮮人連盟本部で働くことにした。これは無報酬であったから、働くという言葉
は不適かもしれない。それではお前はどうして生活してきたかということになる。少しは戦前の貯え
もあったが、主に戦後始めた西陣織の機械を二台ほど自営でやっていた。この世話を妻が四人の子供
の世話とともにしてきたから、いわば妻の働きに頼るところが多かった。
私は民族や社会のことに対して活動しているから、妻が多少重荷を背負っても、子供が不自由な
目にあっても当然の事のように考えて、一人で熱をあげていた。三ヵ月間京都を離れたということは
、一面、収穫もあったが、別な面では組織の中での支えがなくなっていた。青年の教育に関心をもっ
ていた私は、青年部を別にもうけて、朝連高等学院を充実することによって、働き手を本部に送り、
活動を正しい軌道にのせるつもりであったが、帰って見ると青年部は本部に移り、高等学院は中学部
まで出来ていた。朝連高等学院だけでも大変な仕事で、運営の見通しをもっていなかったのに設備も
、予算も、特に人材の不足を痛感していたのに、どうするつもりで、こんな事をはじめたのか判断に
苦しんだ。気の合っている人たちでさえこの始末だ。まして他の人たちは互いに勢力を争う空気がみ
なぎっていた。自分には分っている事柄でも、若い青年に説得するには自分の力は余りにも無力であ
った。
六 京都人文学園
私は一九四七年五月京都人文学園に入学した。四人の子供がおり、六人家族の責任者である私は
毎日追われる生活の不安をかえりみず、毎日毎日どの学生よりも真面目に通学した。殆どの学生は復
員軍人が多く、二十四、五歳の人が多かった。特に目立つのは社会科学に関心の多い人達が多かった
。共産党の細胞や、青年共産同盟などもできて大変活溌なようであった。ところがこの学園は私が入
学してまもなく、校舎を立ち退かねばならなかった。この問題をめぐって学生たちは会議を開いてず
いぶんさわいだが、とうとう立ちのくことになって和風書院という所に移転した。校舎そのものから
うける感じは、学校というより塾といった感じであったが、講師はどの講師もきわめて民主主義者で
あり、進歩的な人たちであった。
校長は新村猛氏で、主なる講師は、久野収、青山秀夫、佐々木時雄氏などで、時々羽仁五郎氏や
、松田道雄氏のような人が特別講義をよくされた。この学校は、歴史を非常に重視して教えていた。
中でも北村敬直氏の東洋史は、私に大きな影響を与えてくれた。学校の責任者達は適当な校舎を盛ん
に物色しているらしかったが、この年の冬に京都北端賀茂川の西べりにあるアパートを買い入れ、一
部の人達が住んでいるのに二階を改造して校舎にした。創立以来校舎を転々としてきた人文学園はよ
うやくここに落ちついた。教室も小さいが、いくつも出来て、この頃になって語学熱がさかんになっ
てきた。仏語、独語、露語、英語、エスペラント等を小人数ながら、各教室でやっていた。私は学校
に出て講義を聞くだけで精力をつくし、家で読書など殆んど出来なかった。
一九四八年二月七日の夜外出から午後九時頃帰宅した。門前で妻とばったりあったが、彼女は、
六歳になる次女を二階にねかせ、三人の子供をつれて銭湯に行く所であった。私はカギを貰わずに私
の家より五、六軒東の家に行って前からの胃病のために温灸をしてもらっていた。約三十分程たった
時であった。前の通りが騒がしい足音とともに、西の方に向って大勢の人が走っている。私は丁度上
のシャツをぬいだ所だったが、何かじっとしておれないで、表にとびだして見ると私の家の階下が火
事で真赤になっている。銭湯からあわてて帰ってきた妻は気狂いのように騒ぐ、「二階に子供がいる
、早く助けて」と。消防車はついたが野次馬で身動きもできなかった。
どんなにしてはい上ったのか二階の表の窓口にたって二階にはいろうとした。火はもう二階まで
もえうつって煙と炎で一杯であった。私は窓をこわしてはいろうとしたが、下の人達は大声でとめた
。私はついに二階に押し入ることは出来なかった。家は子供とともに丸焼となって、すべては灰とな
った。十五歳の時に日本に来て、十九年間えいえいとして貯えた家財をすべてきれいに焼きつくした
。四人の子供は三人となった。五人の家族は路頭に放り出された。幸い織機は別の所にあった。火事
をよい事に家主は立ち退きをせまってきた。火事のショックで以前からの痔疾が悪化してきたので、
専門医に見てもらったら、焼き落す注射をうってしまった。カンパで貰った古い軍服を着て、住む家
もなく、痔病のため竹竿をついて治療に通っていた姿を思い出す時ほど、人生の悲哀を感ずる時はな
い。
二十年来の宿願を無理に達しようとし始めて、一年目にこんなことになってしまった。あと二年
間人文学園を続けるべきか、家族のために家業に専心すべきか、随分考えたが、どうしても学園だけ
は続ける決心をした。同胞の温い同情に支えられて、織機の立っている所にバラックの小屋を弟と二
人で建て、四畳半の部屋に五人の家族で住みこんだ。衰弱した体で、無理に無理を重ねてバラック小
屋を建築したので、私は感冒を引き肺炎になった。
四十度の熱がつづき正に息がきれんとした時、枕元で徹夜で看護してきた妻は医者からペニシリ
ン以外に助ける道はないと言われ、気色を失った。彼女は、ただ一人の身寄りである彼女の叔父に電
話でそのことを話したところ、即座に「よし、すぐもっていく」と言われた。そのことを医師に話し
たところ、持って来るまで待てないと、近くでペニシリンを入手してきて最初の注射をしてくれた。
私はこの時ほど良薬の効き目を体験したことはない。もし三十分遅れていたら、完全に死んでしまっ
たであろう。この時、妻の電話で何千円もする外国製のペニシリンを即答で快く引きうけてくれた妻
の叔父は、私と同じ年で彼も同じく在日三十有余年という境遇を同じくした人だが、生活態度では根
本的に対立し、ものの見方も徹底的に対立するが、あの時の好意は一生忘れることができない。
またこの肺炎の時に、往診して下さった医師が松田道雄氏であったことは、私の医師に対する見
方、私の日本人に対する見方、並びに私の日本そのものに対する見方をも変更させる動機となった。
私は引きつづく災難に身も心も疲れ果てたが、ようやく十日余りの病床からはい上り、幽霊のよ
うな格好をし、古い軍服を着て、人文学園に歩をはこんだ。家族のことに目をつむって、とにかくつ
づけることにした。せめて、学園で必要な学費だけでも誰かに借りたかった。毎月二度の賃金を支払
う日には、いつも二万円ほどの余裕があればと思った。家で通学するということはどうしても出来な
いので、事情を学園の主事に話し、学園の一室を借りられたので、ここに閉じこもった。すべてを学
習に集中するつもりで。
日本の情勢は、食糧メーデーを境にして大きくかわってきた。日本の古い勢力を排除して、新し
い方向を指向していたかに見えた占領軍の政策は、古い勢力を利用する政策にかわってきた。私にと
ってはこの上もないと思われる人文学園も、この情勢の変化で、応募学生の数もへってくる。学園経
営の困難が表面化してきた。学生自治会の活動がこのことを取り上げざるを得なくなってきた。
すべてを学習だけにと自制していた私はいつの間にか、全学生の支持を受けながら自治会の中心
的な存在になっていた。学園側は第三期生まで学生募集をしたが、実際には昼間部三年制の学園とし
て維持することが不可能であることを判断したらしく、第二期生の卒業期に閉鎖を決意したもようで
あった。ところが学生自治会や関係講師の中では、学園維持のための討議が盛んに行なわれていた。
三年間を終えんとする一期生に対する講師たちの責任感と、講義に対する情熱は、実に旺盛なもので
あった。
新村園長の青春時代をふりかえりながらの民主主義のあり方についての講義は、多感な青年に多
大な影響を与えた。
第一期生の卒業式が一九四九年三月二十七日、毎日新聞京都支社の会館でおこなわれた。多くの
講師から、餞けの言葉が贈られたが、私は、その時の青山秀夫氏の言葉を今も憶えている。
氏が「憎悪感や希望的観測や、虚栄心によって、現実を冷静に観察できないほど政治家にとって
大きな誤りはない。諸君の中には政治に対する関心を持つ人が多いようだから、別れに際し、あえて
この言葉を贈る。日常活動の中で私のこの言葉を時々憶い出してほしい」と云ったことを。
人文学園の維持のためにはずいぶん活溌な意見が展開されたが、結局、夜間部一年制の労働学校
として継続させることに一致した。この夜間部の運営について、人文学園の卒業生と在校生とが金曜
会という組織を作って、諸講師の協力を得ながら運営をするというイタリアのボロニア大学の方式を
となえる自活会と、運営の責任を個人に求める小数意見とが対立した。
自治会の意見は講師会の認めざるところとなり、長い時間をかけて昼間部と夜間部を統一して組
織した金曜会は、組織的に今後の学園運営をになおうとした意欲を、くじかれた形になってしまった
。
七 妻の病気
一九五〇年二月、人文学園を卒業した私は、翌日から西陣職業安定所に通いながら三日に一回の
仕事にありつき、家族を助け、一年間だけ勉学をつづけたかった。
八月頃であったか、近所の診療所で集団健康診断を受けた結果、妻に肺浸潤が宣告された。戦後
最もすさんだ生活の中で五年間という永い間、妻に過大な負担をおわせてきた結果が、当然の答えと
して出たのだ。四畳半のバラック小屋、六人の家族、この部屋に病人が寝込む、この暗い部屋に合わ
せたように、真暗な生活が一層の烈しさをもって、六人の家族におおいかぶさってこようとする。肺
病とは不治の病で一たん床にふすと死ぬまで床を上げられない病気のように、私も考えていた。私は
一日をさいて、弟が借りていた部屋に寝ころんだ。そして大分前に松田道雄氏から頂いた『結核』と
いう本を読んだ。必要にせまられないとなかなか奨められても読めないもので、こんなよい本を早く
読まずにつんでおいたことを後悔した。私は何をおいても妻の健康のために可能なことをする決心を
した。
必要なことは休養であり、栄養を十分に摂取させることであり、医師の指導に従うことである。
最も経済的にこの目的を果すべく、私は朝六時におきてナベを自転車につんで、七条内浜の犬の屠殺
場に行って、犬の肉を買ってきた。これをたきつめたおつゆを毎日適当にのませた(朝鮮では犬肉を
食する風習がある上に、結核にはことによいと聞いていたから)。
一方私は、収入を増加させる道を暫時に考えねばならなかった。それには私は家族の生活のため
に専心せねばならない。私はこの点でずいぶん悩んだ。この時期に、人文学園で夏期特別講座が開か
れ、その哲学講師として京都に来られた高橋庄治氏は、私のおかれた状況を観察して帰った。高橋庄
治氏は私のためにわざわざ手紙を下さった。私は決心した。
八 織物業に専心する
この五年間、西陣織物をわずかばかりやっていることで生活してきたが、そのすべてを妻にまか
せてきたので、私は織物をどのようにして織るのか、できた品物をどのようにして売るのか殆んど知
らなかった。にもかかわらず、この仕事で何とか家族の生活が維持でき、その上私のわがままが可能
であったのは、妻の犠牲もさることながら、戦後せんい品の逼迫が何よりもの理由であった。品物が
織り上りさえすれば、商人が織屋をあるきまわって買っていったので、私はある程度の協力でやって
こられたのだが、五年を経過した一九五〇年ではそうはいかない。
戦前からの織物に関する深い経験と、戦後もうけた財力を合わせもっても、多くの同胞は倒産し
ていく時期に、私は織物の配色をきき、買先をたずねまわって売り歩いた。したがって、一から自分
の足で一軒一軒とたずね歩き、出来た品物が売れるか売れないかで次の配色を考えて行くより方法が
なかった。
毎日毎日が寝ても起きても、電車にのっても歩いても、顔にうかぶことは織物の配色と柄のこと
であった。出来上りが悪ければ、買手は見むきもしない。原糸の購入は基盤も資力もない。織手達は
自分の収入の良し悪しだけで自分の仕事をやめて行く。毎月二回の手間払いはどんなことがあっても
現金を準備せねばならず、わずかの滞貨ができれば運営がとまる。私は人間トラックのように品物を
せおって大阪、奈良、東京へと売りあるいて、汽車で上着の内ポケットを切られたり、荷物棚にのせ
た品物をとられたりしながら、資本主義社会の等価交換のきびしさを味わった。
使用価値を目的としない交換も、交換という経済原則を通じて、人間関係を世界的に広めていく
事実には変りはない。私は商行為を通じて、多くの人たちを知ることができ、日本人を知る上に、学
習にも勝る収穫を得た。
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