『戦火に消えたエース 巨人軍・広瀬習一の生涯』(上田龍著、新日本出版社)
1941年の開戦前夜。巨人軍の投手陣は苦しんでいた。兵役から帰った沢村には往時の球威はなく技巧派として苦闘。スタルヒンは肋膜炎で入院。白系ロシア人の彼は理不尽にも敵性外国人とみられ、憲兵の監視下に置かれるなどの精神的拷問を受けていたようなものだ。
そんな8月21日。馬面の、キャッチボール投法の、野手投げの投手がデビューする。滋賀県出身の広瀬習一。後の巨人を支える大エース、小林繁と斎藤雅樹を足して二で割ったような投げ方。武器はホップするストレートと切れ込むシュート。初回のピンチを乗り越え、5点を取ってもらってからはすいすいと投げて3安打完封の見事な勝利。無名の新人が彗星のごとく現れた瞬間。
彼は滋賀県の高等小学校の頃から素晴らしい運動神経とバネを各方面で見せていた。後の阪神の桜井広大のように。水泳が好きだったが、野球なら飯が食べれると、旧制中学では野球を選ぶ。特に陸上関係者は非常に悔しがったそうな。凄いのがいる、ということで、当時強くなってきた大津商業野球部OBの寺田泰一氏が野球部に誘う。馬場甚一野球部長、ライバルの明珍投手、ライバル校膳所中学などの存在が彼を鍛える。エースは左腕の明珍。広瀬はショートを任されることが多かった。
当時は滋賀県で勝っても京都府のチームに勝たなければ甲子園に行けなかった。平安中学や沢村が出た京都商業が強かった。この壁は厚かった。1934年の春の選抜に膳所中学が出場するまで、滋賀県勢は甲子園に出られなかった。1939年1月5日、京滋中等対抗野球大会が開かれる。これは総当たりであったみたいで、前年甲子園出場の平安中学打倒を掲げた大津商業はそれを達成する。これにより、春の選抜に選ばれ、甲子園出場を決める。ここで広瀬はライバル、神田武夫と出会う。神田は京都商業のエース。細身の体から快速球と鋭いドロップを武器にした投手。後に戦前南海をエースとして支え、結核で若くして夭逝する。
さて、選抜。エースの明珍は海藻中学の嶋らと並ぶ逸物という評価。一方、広瀬は強肩好守のショートという評価。甲子園では、ナインは金縛りに遭い、甲子園の魔物に飲まれる。広瀬はエラー二つ。いつもの機敏な守備は出来なかったらしい。帰ってきてすぐに練習。ここで広瀬は再び投手としての練習を始める。明珍が、京都商業に打ち込まれたことの対策である。内野手の経験から、広瀬はサイドスローになったらしい。毎日最低でも3〜400球の投げ込み。今じゃ考えられない。そして夏を迎える。京都商業戦で、広瀬と神田の投げ合いが行なわれる。この試合は1−1の降雨ドロー。翌日に持ち越し。そして両者連投。緑が丘球場のスタンドに詰めかけた滋賀のファンの願いも虚しく、華奢な体を目いっぱい使った神田の力投の前に屈する。広瀬と神田のライバル対決はプロに持ち越される。
広瀬は巨人に誘われたが、当時の職業野球――野球芸者と蔑まされていた、法政の鶴岡が南海入団のためにOB会から除名せよと言われた話は有名――の社会的地位の低さから、馬場部長は断念させる。そして、旭ベンベルグ(旭化成)の社会人野球チームである大津晴嵐会に入る。野球では中々チームとしての成果が出なかったが、陸上選手として大活躍。200mを24.1秒。1941年7月、後の松竹ロビンスを有することになる田村駒に負け、都市対抗出場の望みがなくなった時点で、宝塚の巨人の入団テストを広瀬は受け、合格する。当時の多くの選手たちのように、兵役に取られて死ぬ前に、好きな野球に没頭したかったのではないだろうか。
「巨人軍は紳士たれ」という格言がある。しかし、明日をも知れぬ若者たちは、アウトローのようであった。巨人も例外ではなかった。『巨人軍の筒井選手はx月x日に入隊します。皆さん、拍手でお送りください』と試合中に言われる時代。誰が責められようか。しかし、広瀬は違った。彼は家を支える必要があった。野球で銭を稼がなければいけない。一方、宴会部員として?チームメートを笑わせていた。明るい楽しい人柄は、ファンにも愛された。その一人、上野の根岸栄子さんのところには戦地からの広瀬の手紙が保管されている。
夏のデビュー後、秋には主力として広瀬は登板する。そして、10月6日、南海に入団していた神田と投げ合うことになる。広瀬は意識過剰で、2安打に抑えたが11四球を与えてしまう。一方、神田は7回に崩れ、結局、巨人が2−1で勝つ。勝つには勝ったが・・・。巨人は年間優勝を果たしていたが、この年、春・夏・秋に分けられていたシーズンごとの優勝では、巨人は南海と首位争いを秋に行なっていた。11月16日、甲子園で巨人と南海は激突。巨人は中尾、南海は川崎の先発ではじまったが、延長に突入する時には広瀬と神田の投げ合いになった。しかし、エースとしてフル回転していた神田の疲労は大きく、力尽きる。巨人は秋の優勝を飾る。神田はこの年52試合、344 2/3回の登板。広瀬はこの年8勝4敗、防御率1.61。
冬の東西対抗というものが昔はあった。あと、正月興行とか。11月30日の後楽園球場、東西対抗第二戦で西軍の神田と東軍の広瀬が投げ合う。西軍の先発・神田は東軍を圧倒していたが、疲労から6回に球威が衰え、捕まる。彼は京都商業卒業間際に肋膜炎を患っていた。そして、争奪戦から多くの球団が降りる中、南海に支度金1000円、月給90円(現在なら、支度金500万、月給40万円くらいか?)という格安で入団する。なお、広瀬はリリーフとして2イニングをパーフェクトに抑えて東軍が勝つ。第三戦も広瀬は走塁と投球で活躍し、勝利を齎して殊勲選手に選ばれる。舞台は12月6日から甲子園に移るが、広瀬は看板選手として阪急百貨店前に大看板を掲げられるほどになる。東西対抗第三戦、対米戦争が勃発する。
米国生まれの野球は敵性スポーツとして圧迫が加えられる。観客や選手は憲兵ににらまれる。そんな1942年、広瀬は開幕投手として完封勝利。次は中1日で南海戦に先発。どれだけ選手がいないんだ。延長戦で、リリーフ登板した神田に勝ち星がつき、広瀬は負け投手。4月18日、試合中に初の東京空襲。後楽園には機関砲とか高射砲とかが設置される。去年の疲れからか広瀬は不調となり内野手としての起用もある。気分転換になったか復調し、5月20日には神田とのライバル対決。南海と巨人は凄まじいデッドヒートをしていた。神田は防御率ゼロ点台。この試合、川上が神田の速球を弾き返して決勝点。巨人は春季優勝を果たす。広瀬は10勝4敗、防御率1.47でエース格に。しかし、六月に徴兵検査を受ける。
ライバルの神田、南海伝説のエースについて。春季登板は24試合、13勝5敗、防御率は驚異の0.58。しかし、酷使は肉体を蝕み結核となる。4月18日の試合では川上の決勝タイムリーのあと、
マウンドにうずくまって激しくせき込んだ。口を押さえた右手を開くと、先決で染まっていた。肺結核だった。 それでも神田はマウンドに立つ。球史に名を残す川崎は盲腸炎でいなかった。一方、巨人はスタルヒンの復調などがあり、南海ほどの酷使はなかった。広瀬と神田の最後の対決は、夏季リーグの7月19日、甲子園球場。ともに広瀬と神田は15勝でこの日を迎える。但し、神田は6月15日から入った夏季に限れば2勝6敗。体調は悪化し、しばしば吐血を繰り返していた。広瀬へのライバル心が彼をマウンドに送った。しかし……。四回表途中で自責点2ながら、被安打8、与四球5でKO。一方の広瀬は一安打完封勝利。ああ、どうしても伝説の戦前南海のエース、神田に気持ちが行ってしまう。文字通り命がけで壮絶に南海のマウンドを守った神田は、実働2シーズンで113試合登板、716回2/3で49勝35敗、防御率1.36の記録を残し、翌年7月27日に京都の自宅にて肺結核で死去する。
一方の広瀬と巨人。この年、巨人は独走で年間優勝を果たす。しかし、10月には川上、中尾らの主力の入営が決まっていた。戦力は確実に落ちて行く。33歳の水原茂さえも召集。最年長選手の山本栄一郎が涙ながらに「生きて帰れ」と。青田昇や藤本英雄の入団があるも、巨人も苦しくなっていった。ましてや、他の球団は・・・。例えば南海は、鶴岡一人はたった1年で兵役、初代選手の岩本義行も実働たった3年。
9月12日、試合後、広瀬は腹痛に襲われ、虫垂炎と診断される。緊急手術を受けるが、物資不足の戦時下、治癒は遅い。10月の入営に間に合わず。しかし、体が治りきらない状態で入営したようだ。しかし、やっぱり無理なものは無理。京都陸軍病院に入院した。さらにしかし。広瀬のいた第九連隊は激戦地フィリピンに送られることが決まっていて、おそらくはいたたまれずに連隊に復帰。以後入退院を繰り返し、4月14日にマニラに出港。
広瀬の話をまた離れて。1943年には愛知県で「野球排撃決議」が出される。新聞の内政部長は「敵性競技に親しんでいれば敵愾心の高揚などできるわけがない」と言う。職業野球は「皇国に挺身し、戦う野球戦士として職域の誠を尽くすべし」という『戦士(選手)実施要項』を通達して職業野球を守ろうとする。ユニフォームはカーキ色、戦闘帽を顎紐付きで着用。ストライク、ボールと言う言葉は変更される。スタルヒンは敵性外国人として当局に身柄を拘束され、収容施設へ。歴史を少しでも知っていたら、スタルヒンを敵性外国人というのは、非常に変な話。当時の日本のクレージーぶりが分かろうというもの。
そんな状況だが、戦地に赴いた広瀬は野球をする。フィリピンの地元チームと対戦。対戦相手には、巨人軍の外国人選手一号であるリベラもいた。悲しいお話。リベラはその後、日本軍の暴虐と闘うことを決意し、抗日ゲリラとなって闘い戦死する。日本軍は兵站を「現地で勝手にやってくれ」という、超無責任な大本営のせいで、物資不足に陥る中、抗日ゲリラ、米軍と戦うことを余儀なくされる。
9月13日。広瀬軍曹はレイテ島の闘いで、苦闘する部隊のために本部に連絡する役割を買って出て、渡河中、敵襲に遭い、濁流に飲まれて戦死した。レイテ島決戦は、13000人の日本軍のうち、生還者は620人だった。遺品は、広瀬が戦地に持って行ったグローブの親指の部分。享年22歳。
この本を読むと、どうしても南海の神田とのことに眼が行く。それだけではなく、巨人の内紛、ジャジャ馬青田昇さんのエピソード、アメリカの野球も戦争で傷ついたことも興味深く読める。巨人ファンと南海ファンには特にお勧めである。広瀬を殺したのも戦争だが、神田を殺したのも、戦争ではないか。酷使がなければ、物資があれば。戦争がなければ、戦後の大エース、杉浦と並ぶ歴史を刻んでいただろう。広瀬は、藤本、中尾らとともに素晴らしい成績を収めただろう。
先日の大震災もそうだが、多くの人の無念を思いながら、この文章を書き終わる。

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